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ダルマチアのイタリアとも言えるアドリア海の古都
Zadar
ザダル
(クロアチア)♦♦
Centro
Storico

中世クロアチア王国時代の聖ドナート教会

グリャン島の島影の静かなザダル海峡に面した小さな岬の上に、オレンジ色の瓦屋根の家々がギッシリひしめいている。かつてのイタリアの都市ザーラ(Zara)の旧市街だ。そして、現在のクロアチア第5の都市ザダルの見所は、この中に集中している。
 長さ600メートル、幅300メートルの市街は城壁に囲まれ、三方が海になり、陸地に続く部分は堀と高い砦で守られた要塞になっている。ヴェネチアの獅子が睨む仰々しい門をくぐると、細い通りの両側にイタリアの都市ような色彩豊かな家並みが並ぶ。

城壁内では気づかないが、町は海に囲まれている


都市の起源は、2世紀にローマ帝国が先住民を蹴散らしてここに植民地を建設したことに始まる。その後歴史の波に翻弄され支配者が幾度となく入れ替わったが、ザダルはダルマチアで最も長く濃いイタリア都市としての歴史を持っている。イタリアが最後にこの地を去ったのは1944年のことであり、これが町がイタリアらしさを残しているゆえんだ。
 ローマ時代のフォーラムは今でも町の中心広場として賑わっている。それを囲む、聖ドナート(Sv.Donat)、聖ストシヤ(Sv.Stošija)、聖マリヤ(Sv.Marija)の各教会は、それぞれクロアチア、ローマ、ヴェネチアの様式を踏襲しており、どれも劣らず貴重な建物だ。特に聖ドナート教会は、クロアチア王国時代に作られたこれだけ大規模なものとしては珍しい建物で、古代ローマの石柱を借用して立てているのが見ていて面白い。

旧市街へ通ずるすべての門を、ヴェネチアの獅子が守る

ダルはヴェネチア領時代には、植民地の首都として発展した。確かにヴェネチアは多くの足枷をはめたのも事実だが、戦乱が続く中世ダルマチアにおいて、都市が興隆し、文化的な生活と安全とが保障された時代を送ることができたのは、必ずしも悪いことではないだろう。
 だからヴェネチアの滅亡を、植民地の人々は悲しんだ。ヴェネチア本国がフランスに占領される直前、「冠を戴いてザーラに来たれ」との市から歓迎の言葉を、すっかり戦意を失ったヴェネチア総督が断った話は有名だ。
 19世紀のオーストリア領時代にもこの町ではイタリア語が使用されており、20世紀初頭の国勢調査では過半数がイタリア語を使用していたことが分かっている。1918年には再度イタリア領となり、新たに多くのイタリア人が入植した。しかしイタリアの敗戦に伴い、住民は悲劇的な結末を迎えることになった。

ようやく平和な時代が訪れ、繁華街は市民や観光客で賑わう

えてザダルは、1991年から93年にかけてクロアチア独立戦争の激戦地にもなった。
 それから16年が経ち、市民や観光客で賑わう繁華街のシロカ(Široka)通りを歩いていると、そんな過去には思いもよらない。
 ザダル旧市街の人々は、何事もなかったかのように古と同じく、海から閉ざされたヴェネチアの残した城壁の中で暮らし、ローマの遺跡を生活の場に毎日を送っている。

(地中海生活では従来現地名ザーダルを使用してきましたが、観光地として注目され日本語名「ザダル」が定着してきたため、呼称を改めました。)