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 東京近郊にありながら二千米近い標高を持ち、しかも古道として北都留の山村に重要な役割を果たしてきた大菩薩峠は、近代登山の発祥以降、小説「大菩薩峠」(中山介山著)の発表も相俟って、在京登山家の強い関心を惹いてきた。明治末期から昭和初期に掛け、山岳研究の対象山域の一つとなり、武田久吉、田島勝太郎、松井幹雄等の高名な論客によりその役割の一部が明らかになった。また後年それらを俯瞰した岩科小一郎の総説も、よく纏まったものである。しかし何はともあれ、大菩薩峠のまさに地元、勝縁荘主の益田勝利の解説[1]を見逃すことはできない。
 大菩薩峠とはどのような役割があり、その意義はどのようなものであったか。前述した先人の研究を集約すれば、およそ次のように理解できる。峠道は少なくとも武田氏の時代には甲府と自国領の丹波・小菅を結ぶ要路となっていた[1]。当時は笹子峠越えの甲州街道が存在しなかったので、富士講の参拝客なども、小河内村、小菅を経て石丸峠を越え、甲州に入っていた[2]。江戸時代になり、幕府が首都の守りを固める必要が生じると、通行は主として厳重な関所を通過する五街道に制限された。そして奥多摩・丹波・小菅は天領とされ、首都防衛のためわざと道の整備を行わず、交通不便な状態のまま放置された。その頃すでに笹子峠越の甲州街道が開通していたのだが、それでも強請り(ゆすり)が出る笹子峠を嫌った著名な旅興行の役者一行が、大菩薩を越えたとの話がある[1]。
 一方、甲州東端の山深い丹波、小菅の山村は、作柄が悪く、米を始めあらゆる物資が不足していた。しかも厳しい渓谷をなす多摩川上流域は、流れに沿って道を拓き荷を運ぶことは到底不可能で、他地域から山を超えて物資を運び込むしかなかった。そのため関東平野から距離のある当地においては、当時の物流の中心は甲府にならざるを得なかったのである。地理的には、周囲の秩父や上野原からの物資供給の可能性も考えられるが、これらの地域もまた他所からの移入に頼っており、物資を提供する余力があるのは、富士川水運で潤う甲府だけだったのである。峠越えで丹波や小菅に運び込まれた物資は、場合によっては武蔵の氷川村まで運び込まれていたという[3]。延宝二年(1674)年の絵図[4]に、裂石と丹波・小菅とを結ぶ道と峠上の荷渡場らしき建物とが記入されていることから、少なく見積もっても、二百年以上に渡り峠道が使われていたと思われる。

峠道の変遷 (青文字:開通年)
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)及び数値地図25000(地図画像)を使用した。(承認番号 平24情使、 第142号)
 丹波や小菅から中心地甲府に向かうには、危険な渓谷を避けるため今でいう登山道を通って、山伝いに甲府盆地に入るのが一番だった。その道筋は意外と複雑なものであり、先人達の幾つもの研究によりほぼ全貌が明らかになった。丹波と小菅の道は途中で合流し甲府へ至るのだが、それぞれは明治十一、二年を境にそれぞれ全く違う道に置き換えられたのである。江戸から明治初期まで使われた古い道は、丹波の高尾集落から越(コイ)ダワを越すか貝沢を遡るか[5]して藤タワに達し、鞠子川左岸を緩く登って山葵谷山の東の「追分」で小菅の橋立集落からの道を合わせ、丹波・小菅境界尾根の南に回る[6,7]。しばらく小菅側を水平に絡んでノーメダワに達し、一代前の荷渡場であったフルコンバまでは尾根筋を行く。ここからは現在の峠道より高い位置を、尾根筋直下の南側に絡んで昔の荷渡場を通過し、現在避難小屋が建つ賽の河原(旧峠)で国中(クニウチ、すなわち甲府盆地)へ越し、姫ノ湯沢を急下し、勝縁荘上の尾根道の辺りで現在の峠から来る新道に合流し[6]、上日川峠に達した。上日川峠からは萩原村の裂石へと緩く横手に下り、尾根に出ると急下して一気に芦倉沢まで下り、そのまま裂石へと続いていた。旧峠の国中側は今も登山道としてよく残っており、都留側も何とか道型が分かる部分が少なくない。
 明治に入ると、強風のため冬期に凍死者が出るほど厳しかった旧峠の道は、丹波、小菅それぞれ別々に、より低い位置で稜線を越える新道への付け替えが行われた。丹波側では、安政初期に一度着手したものの、甲州街道の宿場町が経営維持のため結託して幕府に訴え潰された柳沢峠の車道工事が、青梅の小沢作左衛門により再開され(神金・丹波山等周辺の村の協力で建設されたとの異説もあり)、明治十一年には、柳沢峠から下って東に向かい、神奈川県境(当時奥多摩は神奈川県に属していた)の鴨沢に達した[2,8,9]。新道開通後、丹波は柳沢峠を越えて甲府と結ばれ、村人は柳沢峠を越す道を大菩薩峠と呼ぶようになり[10]、古い丹波大菩薩道はすぐに忘れられた。

 一方小菅道は、より複雑な過程をたどったらしい。江戸期の小菅大菩薩道は、文化十一年(西暦一八一四)の甲斐国志が示すように下峠(石丸峠)を越えていた[3]が、田島が小菅の古老から聞いた言葉では、明治十二年の現在の大菩薩峠(新・上峠)の開通前、旧・上峠(旧大菩薩峠)下の荷渡場が使われていた[3]という。当時(昭和初年)の古老と言えば、明治維新の前後から職に付いていた人と考えられるので、明治初期には、橋立集落奥からタケノカイ右岸尾根を登り、山腹を絡んで追分で丹波大菩薩道に合流する道が使われていた[6]という話と一致する。当時は、橋立〜追分〜旧・上峠の道筋が小菅大菩薩道だったようだ。
 その後暫くして、旧・上峠よりやや低い位置に、国中側が明治八年に開通、小菅側も十二年に開通し、新・上峠(現在の大菩薩峠)が開通した[6]。一粁ほどの工事で済む国中側に比べ、約十粁に及ぶ別ルートを拓いた小菅側の工事は大事業であった。それを人口千人に満たぬ寒村[6]で、しかも県下で一二を争うほど貧しかった小菅村が、国中側から遅れること四年で完成させたことは、考えられぬほどの苦労を伴ったものと想像される。この新道は、小菅川左岸を遡り、赤沢で山腹に取り付き、矢下沢を渡ったその右岸尾根から、今も使われる日向沢登山道となってフルコンバに至り、旧道の下を絡んで一八九九米の大菩薩峠(現地には明治時代の測量値のまま「一八九七米」との表示があるが、正しくは(註:国土地理院数値地図によると)一八九九・一米)に達し、国中に入ると山腹を緩く下り、姫ノ湯沢の左岸尾根で旧道に合流するものである[1,6]。現在、小菅から赤沢までが車道化により消滅したが、その先の矢下沢右岸尾根までは水源林巡視道として残されており、また今日の登山道は、車道の日向沢登山口から数百米の連絡路で明治以来の峠道に接続し、多くの人に歩かれている。小菅大菩薩道の変遷(小菅〜上日川峠)をまとめると、以下のようになる。
 あと気になるのは、どこで姫ノ湯沢(勝縁荘前の沢)を渡るかである。現在の峠道は立派な車道となって、勝縁荘の直前を頑丈な橋で姫ノ湯沢を渡り、峠へ向かう道は左岸の小尾根を真直ぐ登っている。一方、今日の旧峠道は、富士見山荘の前で車道を離れ、笹の中をトラバースし、1740M付近で沢を渡り、富士見新道を分けた後、急に登って左岸の旧峠道に合流している。この一帯は、昭和に入ってから数軒の山小屋が建ち、車道が開設されるなど開発が進んだところであり、それ以前の状態を示す資料が見つからない。地形図を見ても、等高線・歩道がいずれもおざなりに線が引かれていて、細部の状況を知るには役立たない。唯一頼りにできるとすれば、大菩薩研究で知られる岩科小一郎による解説[6]だろう。それによると、上日川峠から登る峠道は、現在、富士見山荘がある平地を通り、勝縁荘の地点で姫ノ湯沢を渡り、左岸の小尾根を少し登り、新・上峠(大菩薩峠)へ向かってトラバースを始める地点で、旧・上峠へ向かう旧道を分けていたという。確かに、安全に通行するには極力尾根通しの道が都合よく、富士見山荘から分かれる今日の旧峠道は一時沢沿いを通る点で、峠道としては適当でない感じがあり、また沢を渡り左岸尾根に乗る部分も、不自然に急登している。そういう訳で確たる証拠はないが、ここでは勝縁荘先で旧道が分かれるとする岩科説を採用したい。

 さて、ここまで述べてきたのは、新峠・旧峠を含め今に云う大菩薩峠、俚称「上峠」のことである[6]。一方江戸期には、大菩薩峠には「上峠」の他、約一粁の距離を置いて「下峠」があり、前者は丹波へ後者は小菅に通じていたと云う[11]。下峠の道は、田元から大マテイ山の北を抜けて牛ノ寝通りに入り、そのまま石丸峠を越えて上日川峠で上峠の道に合流して裂石に下るものである。つまり今に云う石丸峠(以前は、石魔羅峠、小菅大菩薩峠とも)が下峠に当たり、上峠の荷渡場同様、ここにも小規模の荷渡場の跡が見られたという[3]。この道は江戸幕府以前に使われていた、古甲州街道でもある[1]。下峠で交易があったとの記述は、明治後期に上峠を通じて小菅とも盛んに交易が行われていたとの事実と整合がつかず、山岳研究家を悩ませた。
 これには、大菩薩峠を挟んだ国中の各村と丹波・小菅の間で行われていた荷渡制度も関係するので、併せて説明しておきたい。このような制度は同様に約二千米の山を越す十文字峠でも行われていた[12]ことが知られ、余り記録に残っていないが、山村では普通に行われていたのかも知れない。峠越えの物資運搬の実務を請け負った麓の村人が、重荷を携えて峠を越して向こうの村に荷を渡し、当日中に帰宅することは到底不可能であった。そこで峠近くの無人の荷渡場に運んできた荷を置き、置かれていた交易品を持ち帰ることを、双方の村で行っていたのである。例えば小菅からは経木、コンニャク、わさびを、萩原から米、塩、酒を運び、差額を半年ごとに精算していたという[3,6,7]。ただし、これは十文字峠の例だが、馬も空身で峠を越すことはあったようだ。当時の農家にとって、軽トラック兼トラクターの役割を担う馬は必需品であり、子馬を佐久で購入し、連れて歩いて秩父へと峠を越していたという。しかし険しい山道を荷を負った馬が越すことは難しく、物資輸送は専ら人背で行われていた[12]。
 当初は全ての物資を毎日三、四十人の人足が、米や酒などを小分けして背負子に括り、人背で担ぎ越していた[1,6]。安政元年(西暦一八五四年)になると、小菅から上峠を越した小川泰堂が、荷渡場を歩いて通過した時、馬背で運ぶべき荷を見たとの記録があり[13]、その頃から馬が通るようになったという[1]。小菅では明治二十年代まで人背の輸送が併用されていた[1,6]が、次第に馬への切替えが進んだ。しかし馬背にしても、重い物資を積んで悪路を歩かせることはできず、小分けして負わせていた[1]。
 江戸末期、上峠の荷渡場はフルコンバにあった。ごく稀にしか通らない余所者が目立ったためであろうか盗難は起こらず、荷の安全は保証されていたという。その後荷渡場は移設され、明治初年頃には旧峠道の小菅側、現在知られるの荷渡場跡の上方にあったという。田島は昭和初期の著書で、「旧道の道筋に沿うて小屋場がある。これが中古の小屋場で…」と小菅の古老の話を書き留めている。さらに新峠が開通すると、荷渡場は現在の「ニワタシバ」付近に移された。ここにあった小屋は明治二十年頃まで使われていたというが、昭和初期には木組みを残す程度だったという。一方、小菅のほか尾根伝いに七保、西原にも通ずる下峠は、特に坂がきつかったことから、下峠の荷渡場では人背で担ぎ上げての交易が行われていたと考えられる[3,6]。

 前述した神金から柳沢峠を越えて鴨沢まで開通したの旧青梅街道は、馬が通れるとは言え目も眩む険路で、当初、道中の墜死者が続出したが、今に云うガードレールを設置するなど次第に整備され歩きやすくなったようだ[6,10]。大菩薩越の旧道に比べ約四二〇米も低い位置で峠を越えるので、丹波はもちろん小菅への物資も、次第に青梅街道の柳沢峠越に変わっていった。中継所の落合では、昭和初期まで貨物の取次が行われていたという[6]。明治三十二年、青梅街道の武蔵側の難所であった氷川〜小河内間が改修された[14]ことで、初めて小菅は峠越えなしに外界と結ばれた。しかしまだ道は悪く、翌三十三年に乗合馬車が御岳まで入ったものの[16]、数馬の切通(白丸駅南の国道のトンネル)が特に悪く、氷川とその上流側の丹波・小菅が青梅圏に入るには時間を要した。そのため国中との峠越えの交流はしばらくの間続いたが、小菅大菩薩道の荷渡場は明治三十九年には既に使われなくなり、ただ小屋だけが残っていた[17]という。そして同三十六年に中央線が甲府まで全通すると、鶴峠越えで上野原に出るルートで東京とも直接繋がるようになり[1]、大菩薩越は完全に意義を失った。
 しかし折よく明治三十四年、新道沿線の森林が、水源涵養のため東京府有林に組み込まれた[15]。同三十九年に武田久吉が通行したときには、植林準備として伐採が進行中だったと云い[17,18]、同四十一年の「東京市水道水源多摩川流域森林調査第一報告書」付図に道筋が記入された。このことは、物流を担う峠道としての役目を終えた新道が、東京府の造林作業道として活路を見出したことを意味している。
 大正になると青梅側からは、乗合馬車や自動車が氷川まで入るようになり、同九年に鳩ノ巣までバス路線が開通した[16]。しかし氷川にバスが初めて入るには、昭和五年まで待たねばならなかった[19]。さらに奥まで自動車が通るには道がまだ狭く、鶴の湯へ行く客は小型ハイヤーに乗換えていたが、断崖を行く道のあまりの危険さに乗客は目を瞑ったという[20]。小河内ダムの建設工事に伴って道の改修が進み、バス路線は昭和十四年に湯場(小河内温泉・鶴の湯)、一八年に川野に達した[20,21]。第二次大戦後にようやくバスは山梨県下に入り、昭和二十四年に丹波、二十六年に小菅が青梅線の氷川駅(現・奥多摩駅)と結ばれた。

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[1]益田勝利「大菩薩峠今昔雑記」(『登山とスキー』六巻四号)、四六〜四九頁、昭和十年。
[2]守重保作『小菅村郷土小誌』小菅村、昭和五十九年、二二九、二三二、二三三、二三六〜二三九頁付近。
[3]田島勝太郎「大菩薩嶺から小金沢山まで」(『山と渓谷』二七号)、六〜二七頁、昭和九年。
[4]上野福男「近世萩原山の泉水谷流域における国中萩原村と郡内丹波山村との間の境界論争」(『駒澤大學文學部研究紀要 』三五号、一〜二一頁)、昭和五十二年。原典は裁定書(延宝二年)の写しである『広瀬文書(上萩原)』の「泉水谷山論裁定絵図」。
[5]陸地測量部『点の記』、「山葵谷測點」、明治三十七年。
[6]岩科小一郎『大菩薩連嶺』朋文堂、昭和三十四年、三八、四一、四三〜四六、五五〜五七、七四、八〇頁付近。
[7]田島勝太郎『奥多摩』山と渓谷社、昭和十年、一九七、四二二〜四二三頁付近。
[8]加藤浩徳・志摩憲寿・中西航「交通システムの発展と社会的要因との関係:山梨県を事例に」(『社会技術研究論文集』八号)、一一〜二八頁、平成二十三年。
[9]中西慶爾『青梅街道』木耳社、昭和五十七年、「柳沢峠」二五七〜二六〇頁。
[10]金子一夫「小山正太郎資料(三) : 遊峡録艸稿 庚辰夏日 小山正太郎記」(『五浦論叢』一〇号、一四五〜一八四頁、平成十五年。
[11]小野泉『甲斐國志 九』温故堂、第三十六巻九枚目、十三〜十四枚目付近、明治十七年。原本は松平定能編『甲斐國志 第三十六巻 山川部第十六ノ中』、甲府勤番支配、文化十一年(西暦一八一四年)。
[12]長野県教育委員会『歴史の道調査報告書 42(秩父道)』、平成七年、五一頁付近。
[13]松尾秀一『武蔵アルプス遊行記』隣人之友社、昭和八年、一五一〜一五二頁付近。原著は小川泰堂の記録。
[14]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(五)」(『OMCレポート』二三八号、一一〜一四頁)、昭和四十四年。
[15]泉桂子「東京都水道水源林における戦前・戦中期の経営展開」(『東京大学農学部演習林報告』一〇四号、一五七〜二四五頁)、平成十二年。
[16]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(一一)」(『OMCレポート』二四六号、二六〜二七頁)、昭和四十五年。
[17]武田久吉「大菩薩雜筆」(『霧の旅』一七・一八・一九合併号)、一七〜二九頁、大正十五年。
[18]武田久吉・羽賀正太郎・神谷恭・岩科小一郎・加藤秀夫・益田勝利「大菩薩をめぐる座談会」(『岳人』八九号)、一八〜二五頁、昭和三十年。
[19]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(三)」(『OMCレポート』二三六号、ニニ〜ニ五頁)、昭和四十四年。
[20]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(一ニ)」(『OMCレポート』二四六号、一六〜一七頁)、昭和四十五年。
[21]中村謙「紅葉の和名倉山」(『山と高原』一八号、一六〜一九頁)、昭和十五年。
[22]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1947/11/08)』、昭和二十二年、M636-A-No1-157。
[23]東京都水道局水源管理事務所『水源林管理概要図』東京都水道局、昭和四十二年。