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上武国境の峠道

 かつて上武国境を越えて秩父・中津川と上州・野栗沢を結ぶ、三本の峠道があった。土坂峠、志賀坂峠を始め、秩父盆地から直接神流川に越す多くの峠と異なり、わざわざ山深い中津川に越す峠道は、何らかの形で中津川奥の鉱山に関係するものである。この三本の峠道は、十国峠街道沿いに開けた上州・新羽と秩父の山奥の山村・中津川を結ぶもので、鉱山へ物資を運び込んで鉱石を運び出すための生命線であった。人の出入りもこの道から行われたので、必然的に作業者は上州人が多かった。
 この三つの峠は、東から、赤岩峠、雁掛峠、スミノタオ(山吹峠、六助ノコルとも)である。地形図を俯瞰するとよく分かるのだが、地形的にも距離的にも通りやすい順に、メインが赤岩峠が、サブがスミノタオ、最後が雁掛峠であったと考えられる。いずれも鉱山地帯を成す険しい岩山を越える厳しい道だ。比較的最近まで反映していた小倉沢地区に通ずる赤岩峠、雁掛峠の道は、地形図に収載され(雁掛峠道は平成九年の修正版で削除)、現在も登山者に歩かれているのに対し、短期間興隆して廃坑となったスミノタオ越えは地形図に一度も収載されていない。
 原全教は昭和二年大晦日、中津川で会った杣人から、六助道を通って容易に上州越できるとの話を聞き、この道を踏破した。その時の様子が、詳しく書き残されている。まず中津川から八瀬尾根を越え、小神流川(古神流川、単に神流川とも)を渡ったヒラ平で小倉沢へ鉱山道を分ける。ここまでは赤岩峠道、雁掛峠道と共通だ。神流川を遡り、大黒抗付近で右岸に渡り返すと、すぐに六助沢の出合に達する。木の枝や岩等を踏みつけ押し均した、沢に沿う歩きよい小道を、炭焼や鉛掘りの家を見ながら登る。昭和初期には十家族ほどが炭焼に入っており、材料となる周辺の木々は伐採されていた。雁掛峠へのよく踏まれた巻道を分け、産品を上州に運び出す馬道を電光型に登って、六助沢・山吹沢分水尾根に達する。六助沢出合からこの分水尾根まで55分である。山吹谷への下降路を分け、宗四郎の下を水平に巻くと、20分で上武国境のスミノタオである。中腹道を緩く下ると、やがて所ノ沢に沿う道となり、一軒家の近くで雁掛峠道を合わせる。さらに下ると、国境から50分で野栗沢である[1,2]。
 原が道中で母娘連れに出合ったことで分かるが、所要時間からしてもかなり良い道であったことが伺える。実際、歩行速度がかなり速い著者でも、現在、六助沢出合から六助・山吹分水尾根まで2時間近くを要したが、往時の道の状態で、原は55分、坂本は1時間30分で達しているのである。なお六助沢出合から野栗沢までを原全教は2時間5分で歩いたが、坂本朱は3時間10分かかっているので、やはり原の歩行速度はかなり速いようだ[1,3]。
 険しい山越えでありながら生活道もあったこの道は、登山者の記録が稀である代わりに、鉱山関係の記録に度々登場する。昭和初期の六助抗の鉱山主(鉱業権者)であった鈴木えつは、群馬側から篭で峠を越えて入山した。六助に設けた山ノ神の社も、東京で造り群馬から運び込んだ。鈴木から鉱山を買収した日窒鉱業も、調査のため群馬から入山したという[4]。昭和十二年、日窒の鉱山道開通直前と思われるが、六助への物資輸送は依然として群馬から馬背で行われていた。「野栗から六助まで雁掛峠を越えている。黒沢の野栗支店から米その他の日用品を六助まで運び、帰りにはカマス入りの鉱石を運んだ馬について行ったものだ。」と記録されている[5]。なお六助へ通ずる馬道を雁掛峠越えとしたのは記録者の勘違いと思われ、スミノタオを越えたはずである。

六助鉱山

 六助の歴史は、鉱山の歴史そのものである。六助沢は中津川村の百姓稼山(共有林)であり、二百年来、多種の鉱物が産出される六助沢は、鉱山として断続的に採掘が行われてきた。初めに六助沢の開発を手がけたのは、鉱山開発に熱心だった地元百姓・松四郎の子、佐右衛門である。文政三年(1820)佐右衛門が銀・鉛の試掘を行い、文政十一年(1828年)にはその子・茂市が再試掘した。文化年間(1804-1818年)の百姓・左衛門による試掘が最初とする資料もあるが[6]、いずれにせよ二百余年前のことである。しかし資金の限界から、茂市は事業権を村外の金主・上州邑楽郡梅原村直七に委ね、一定割合の権利金を受け取る方式とした。さらに出荷を江戸の鉛問屋・伊勢屋平作に委ねるうち、最終的には伊勢屋が経営の実権を握るようになった[6-9]。
 本格的な鉱山経営は、天保十四年 (1843年)江戸品川町の伊勢屋平作により開始された。同十五年(1844年)の金鉱発見を受け、弘化四年(1847年)に稼働を開始した。嘉永二年(1849年)頃には、六助沢から左岸尾根を越え、雁掛沢源頭の雁掛沢鉱山にまで事業が拡張された。嘉永五年(1852年)の絵図には、六助沢鉱山から尾根を超えて雁掛沢鉱山へ通ずる道が描かれている。六助沢と小神流川右岸のヒラ平とを合わせて、1840〜1845年の六年間で、約39トンの鉛が産出された[6,8,9]。
 嘉永四年 (1851年)当時、二十棟の建物があったが、新鉱脈の発見でさらに八棟が追加されたという。会所、吹小屋、人足小屋、水車小屋に加え、砂鉛採集のため沢沿いには「出小屋」が並んでいた。さらに鉱山に必要な木材や燃料を提供する、伐採小屋、炭焼小屋が山中に建てられていた。多くの職人が、近隣の上州・神流川からはもちろん、東北地方からも集められた。その頃すでに上州側の村との繋がりが存在しており、古文書には、寛政八年(1796年)の万場村・兵馬による中津川村の共有林買取りと伐採、甘楽郡の寿一郎、五兵衛による小神流川の広河原谷・赤岩谷までの立木買取りが記録されている。近隣の村からの鉱山経営に必要な板材・鋸・ふとん・米・味噌・酒・風呂桶などの搬入、鉱石の搬出のため、国境を越え上州に向け馬道が開設され、荷を括りつけた馬が頻繁に往来していた。従って当時すでに、武州の小神流川と上州神流川を結ぶ峠道が成立していた可能性が考えられる[9,10]。
 同時期に開発された尾根一つ隔てた雁掛沢の嘉永六年 (1853年)頃の様子が、より具体的に記録されている。沢沿いに板屋が立ち並び、炭窯では鉛製場で使用する炭が生産されていた。周辺各村から集まった働き手が、篠竹を束ねて灯火とし、坑道に入っては鉱石を堀出し、鉛鉱石と土を選別していた。六助沢の様子も、恐らく似たようなものであったろう[7]。
 しかし周辺の鉱山で発見された有望鉱脈が注力され、六助鉱山はその地位を低下させた。試掘を続けるものの大鉱脈が見つからず、明治から昭和に掛け、鉱山主は植木馬次郎、山中嘉太郎、鈴木えつ、と転じた[4]。原全教が見た光景はこの時期のもので、もしその直後の大開発を見たら腰を抜かしたことであろう。
 六助鉱山に転機が訪れたのは、昭和十二年の日窒鉱業開発(現・ニッチツ)による買収である[11]。日窒は親会社の日本窒素肥料株式会社が、肥料の重要成分である硫酸アンモニウムの原料である硫酸の確保を目的として、六助鉱山の閃亜鉛鉱に目をつけた[12]。試掘を続けていた鈴木から鉱山を買い取り、今日まで続くニッチツの礎を築いた。日窒が秩父地域の鉱山にとって画期的だったのは、豊富な資金を背景に、資金調達から掘削、販売まで全てを一括して行ったことである。大規模投資で効率的な経営は、土地所有者、鉱業権者、掘削者、販売者らが互いの利益配分を巡ってせめぎ合いつつ協業していた従来の鉱山経営[13]に比べ、革命的であった。
 小神流川一帯の鉱山を次々と買収した日窒鉱業は、道路を開削し、送電線、索道の整備を行った[11]。最初に手に入れた六助抗は道路すらない山奥だったので、直ちに六助沢左岸の硬い岩盤を切り開いて通路を開削、輸送路を確立した。これを使って、社宅数十戸を建て、トランス、コンプレッサー、シャープナー等を揚げ、「三峯鉱業所」の名を冠した施設を完成した。直前まで僅か6名の作業員と監督・雑役の計8人で試掘を行っていた鉱山に、多くの作業員と大量の物資がつぎ込まれ、坑道は急速に伸長した[4]。今ならヘリを使って輸送するようなあれだけの山奥に、大量の重量物を運び入れた具体的な方法については、詳細には分かっていない。文献では、「出合(註:神流川の中津川への出合)〜六助5kmの道路建設」[12]、「インクライン(註:鋼索鉄道)で捲き上げ」[4]とされている。昭和十二年、中津川県有林開発のため、秩父からの県道(車道)が中津川に達した[14]。これに接続する形で、出合〜六助間の道路が開設されたことは間違いない。昭和十七年刊の案内所に、出合で鉱山方面への道がトンネルで分かれ、牛車が通行していたとされる[15]ので、出合から大黒を経て六助までの区間は、日窒の手により直ちに牛馬道(規格幅約1.8Mの道路)が新造されたと思われる。当時としては、牛馬力輸送がごく当然の常識的手段であった。インクライン、即ち産業用ケーブルカーは、通常せいぜい数百米程度のあまりカーブの激しくない区間で使用されるものなので、標高1110M付近の牛馬道終点から数十米上の山腹にある作業場や坑道まで、機器類を運び上げるのに使われたのであろう。
 昭和十六年の鉱山案内図[16]を見ると、六助抗に至る神流川からの鉱山道路と、小倉沢の貯鉱場へと鉱石を搬出する索道とが示されている。不要となったインクラインの軌条や台車車輪の残骸が、鉱山作業道の各所に今も見られる。六助沢の所々に同じ残骸が見られるのは、数十年の歳月のうちに崩壊や出水で流され、沢に転落したものであろう。
 日窒鉱業は当初、探鉱の主力を六助鉱床に置き、鉱床の母岩である石灰岩中に、縦横に探鉱坑道を掘削した。昭和十五年九月には、大黒地区に処理能力4000トン/月の湿式選鉱工場を完成し、操業体制が整った。その結果、昭和十五年までは百トン/年前後だった亜鉛・銅・鉛の粗鉱生産量は、最盛期の昭和十六〜十八年には千トン/年を越えた。しかし昭和十九年以降の生産量は激減し、昭和二十三年の150トン/年を最後に閉抗となった[17-19]。昭和二十〜四十年台に掛けても鉱床探索が行われたが、再開発に値するほどの有望な鉱床は発見されなかったと見え、手付かずのまま現在に至っているようだ[17,20]。

原全教と坂本朱の紀行

 昭和二年大晦日、原全教は中津川の名代・幸島家を後にした。秩父鉱山へ向かう小径で八瀬尾根を越え、ヒラ平に下った。ヒラ平は現在、ニッチツの大黒抗の位置に当たり立ち入ることはできない。小神流川を渡ると雁掛沢鉱山(現在の小倉沢集落方面)への分岐がある。小神流川を奥へ行くと、道はすぐ右岸に渡り返した。そこで中津川へ早めの年始廻りに行った帰りの、六助沢に居を構える炭焼の母娘に追いついて以後しばらく同行する。母娘は、六助沢で炭を焼き、主として上州に製品を搬出し、上州から物資を搬入しているという。河原が広くなった六助沢出合には、何かの小屋があった。両岸が切り立った六助沢だが、道はよく踏まれていた。沢には炭焼が住む作業小屋が幾つもあり、左寄りに登った標高千米付近が母娘の家族が居る家だった。そこで母娘と別れ、さらに百米も登ったところに最後の一軒があった。六助沢に入って二十五分の位置である。谷の詰めの急斜面を左に登っていく道の行方に、炭を付けた馬が電光型に登っていくのが見える。それを追って登ると、雁掛峠へのよく踏まれた巻道を分ける。最後の一軒から三十分で山吹沢との分水尾根に達した。そこから道は水平に巻いて行き、二十分後にスミノタオで上武国境を越えた。山腹の襞を丁寧に巻きながら緩く下る、北面の雪深い道を行くうち、やがて所ノ沢で雁掛峠道を合わせ、野栗沢の村に下り着いた。国境から一時間四十分の下りであった。
 昭和九年頃の坂本も、かなり簡素ながら同様の記述を残している。六助沢奥の小屋を鉛掘りのものとしていることや、昭和四年に小倉沢の休鉱時の管理者の家族が六助沢に年始廻りをしていたとの記録[21]から、当時も江戸時代以来の鉱山活動が行われていたことが分かる。坂本がスミノタオで見た山ノ神は、同一の物かは知れぬが今も見られる石祠のことであろう。

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[1]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、「中津川より神流川へ」五九五〜六〇六頁。
[2]原全教『奥秩父回帰』河出書房新社、昭和五十三年、「冬の初旅」六七〜七九頁。
[3]坂本朱「奥秩父西側尾根」(『山と渓谷』三四号、六八〜七一頁)、昭和十年。
[4]飯島英一「六助時代から」(『掘進』三号、頁数不明)、昭和二十七年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、三〇一〜三〇五頁の全文引用を参照。
[5]新井サト子『峠のむこうに…』(私家版)、平成十年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、三一六〜三三三頁の全文引用を参照。
[6]日本鉱業協会探査部会編「14.秩父鉱山」(『日本の鉱床総覧(上巻)』日本鉱業協会、一七九頁〜)、昭和四十年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、二四四〜二四七頁の引用を参照。
[7]原田洋一郎「江戸時代における秩父郡中津川村鉱山の地域的基盤」(『歴史地理学』一六八号、一〜一六頁)、平成六年。
[8]原田洋一郎「近世期における鉱山開発と中津川村」(『歴史地理学調査報告』第五号、八三〜九八頁)、平成三年。
[9]原田洋一郎「江戸時代における小規模鉱山の開発-武蔵国秩父郡中津川村を事例として-」(『人文地理』第四五巻、第四号、六六〜八三頁)、平成五年。
[10]富岡政治「近世中津川村における生業と林野利用:土地利用からみた生活領域」(『史苑』五一巻、二号、四一〜八〇頁、)、平成三年。
[11]大石徹「埼玉県秩父地方の産金についての検証」(『埼環協ニュース』二一九号、三三〜三八頁)、平成二十三年。
[12]谷田貝敦「秩父鉱山の概要」(『水晶』第二四巻、二〜八頁)、平成二十五年。
[13]飯島英一「その後の秩父鉱山」(『掘進』三号、頁数不明)、昭和二十七年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、二八五〜三〇五頁の全文引用を参照。
[14]秩父市大滝村誌編さん委員会『大滝村誌(上)』秩父市、平成二十三年、二七八〜二七九頁付近。
[15]塚本閣治『日本山岳写真叢書 奥秩父』山と渓谷社、昭和十七年、「中津峡、三国峠、梓山」一一七〜一二二頁。
[16]作者不明『秩父鉱山』(案内図)、昭和十六年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、二八二〜二八三頁の引用を参照。
[17]金田光弘「秩父鉱山における探査の歩み」(『日本鉱業会誌』、八三巻、九四六号、一五五〜一五八頁)、昭和四十二年。
[18]赤沢敏行・北原奎司郎「秩父鉱山」(『日本鉱業会誌』、八三巻、九五六号、一八二二〜一八二七頁)、昭和四十二年。
[19]大久保雅弘・堀口万吉『万場地域の地質 ─地域地質研究報告 5万分の1地質図幅 万場 東京(8)第26号』地質調査総合センター、昭和四十四年。
[20]採鉱専門委員会「採鉱現地研究会」(『日本鉱業会誌』、八三巻、九五二号、一〇三九〜一〇四八頁)、昭和四十二年。
[21]原全教『奥秩父回帰』河出書房新社、昭和五十三年、「第二回の冬旅」八一〜一一三頁。