六助道 page 2 【廃径】

 六助越えは上武国境を鋭鋒を成す宗四郎付近で越える険路であり、手入れの悪さと云うよりむしろ、崩落による物理的な荒廃が著しい。ここでは代替えルートも含めて、通行可能な経路について通行時点の状況をまとめておきたい。

● 六助沢出合~三峯鉱業所跡

 六助沢に沿って登るこのルートは、日窒鉱業の開発以前に使われていた古来の道で、原全教、坂本朱らが歩いた道である。現在の沢は採鉱と伐採とで荒廃し、まるで瓦礫を敷き詰めたような有様だ。鉱山関係の廃棄物が点々と見られ、流出した鉱石成分の影響で、沢床も赤っぽかったり白っぽかったり不自然な色をしている。
 神流川左岸の車道(上野大滝林道)を雁掛トンネル下のゲートから約300M進むと、両岸が百米近い崖になった廊下的様相を示す狭い六助沢を渡る橋があった。護岸工事のため橋から数米下の沢へ下降が難しく、一応左岸のトラロープで下れたが、いったん神流川の河原に下り、出合から六助沢を遡行し橋下を潜ってきても良い。水量はさほどでなく自由に両岸を行き来できたが、道型はほぼ消えていて、礫を敷き詰めた河原をただ歩いた。標高850Mにある高さ7Mの第1堰堤をトラロープで越し、860Mの7M第2堰堤は左岸の脇から登った。木梯子の残骸が、今や痕跡すらないこの道が、遠くない昔にまだ使われていたことを示していた。885M付近の数米斜滝右岸にはまだ作業道の道型が残り、赤テープが巻いてあった。一定幅の河原を持った廊下状の谷は、堰堤がなかった昔は意外と登りやすかったのであろう。巻いたまま幹が成長して食い込んだ古い針金、沢に沿って引かれていた鉱山の黒い樹脂チューブの残骸など、歩道の荒れと反対に人跡に満ちた行程だった。
 900M付近で左岸に微流の20M滝を入れると、本流は左曲して見事な柱状摂理のミニゴルジュになった。ゴルジュ内の緩いナメ滝を登山靴ではイヤな感じだったが無理に登ると、谷が開けた。プラスチックペールの蓋、ネットなど、相変わらずゴミで汚かった。930M付近の12M斜滝は、遡行なら容易だが、今回は登山なので右岸支沢を利用して巻いた。また広い河原が現れ、右岸に道的な気配が残っていた。
 975M付近の水流中に半ば埋もれた、錆びたレールを発見した。坑道付近の鋼索鉄道から落ちてきたとしても下流すぎるので、大水の時に流されて来たものであろう。他にもパイプ、シート等の廃物が点々と見られるようになった。980M圏左岸支沢が入ってすぐ、990M付近にナメっぽい8M斜滝があった。右岸をへつり、滝下に取り付いて登り、途中からトラロープを使って、振られそうな重心の微妙なバランスで通過した。かつ振られそうなため、かなり厳しかった。もちろんワラジなら極めて容易な滝である。1000M付近にも二ヶ所にレールがあり、うち1本は左岸斜面にうまく突き刺さって、錆びの少ない綺麗な状態だった。沢床はますます茶色が強まり、鉱山近しの感であった。直径約10cmの鋼管、直径約1cm位の細長い鉄棒など、専門家でないと用途が判断できないようなパーツを次々と目にした。
 沢に入ってからここまで、道の痕跡は皆無に近く、ただの登山靴での遡行であったが、初めて左岸高くに巻道らしきものが見えた。登って確認すると、この踏跡は980M圏左岸支沢の方からトラロープで登ってくる踏跡があり、またはその中間尾根から登って来る気配もあった。そうして先の8M斜滝を巻いているのだろう。沢に大型の黄ポリタンクが沢に浮いているのが見えた。1030M付近の石組の設置台から転落してきた、鉱山廃水中和用の苛性ソーダのタンクのようだ[22]。1015M付近の12Mナメ滝付近の沢沿いにもトラロープ見えたので、ロープの設置箇所に一貫性がなく、廃道化後の入渓者が銘々に付けたものなのかも知れない。この沢は鉱毒のため魚影がないので、他渓と異なり入渓者の目的は鉱石取得である。文献やインターネットに頻出する著名なスポットであるとのことで、採鉱者の乱獲による拾鉱量の激減を嘆く報告[23]すらある。
 2:1の1022M二俣の中尾根の見事なヒノキの森に、一斗缶・石油ポンプ、トラロープの残置と方形の石組が見つかった。これがさきの大型ポリタンクの本来位置らしい[22]。支沢の右股には、ゴムホース、ロープ、鉄パイプなど各種廃物が散乱し、赤く錆びた水はそこから来ていたので、上に大きな鉱床があったのだろう。水流がだいぶ減ってきて、ナメ的な水流中の遡上も容易だった。圧迫するような岩壁はもう現われず、陽が差して穏やかな谷を行くと、右岸に日当たり良い平地があった。この辺がかつての炭焼小屋だったのだろうか。またも様々な形状の用途不明の鉄の部品、ゴムパイプ、それと直径200-230mmほどの鋼索鉄道の車輪が水中に落ちていた。直後にまた車輪、続いて左岸斜面に刺さって突き出た保存状態よいレール、水中には日立のブランドマークが刻印された、400*300*250mmくらいの方形の鉄のパーツ、ドラム缶なども。初め興味深く観察していた廃物にも、さすがにううんざりしてきた。
 1090M圏のほぼ均等な二俣は、どちらかと言えば本流らしく見える右股に入った。内部に水が溜まった右岸の立派な岩屋は、恐らく坑口であろう。その近くで、左に戻るように登る明瞭な薄い踏跡を見た。これが六助越の道である。進行方向の山腹に見える幾重にも連なる石垣が、三峯鉱業所の事業所跡の一角である。埼玉県森林図では、1090M圏二俣の右股に四棟、左俣に三棟の建物が記入されており[24]、なかなか大規模な施設だったことが分かる。右股側の敷地は、標高1220M付近の水平道以下の左岸山腹に展開し、多数の抗口、石組み、整地、設備跡、種々の廃棄物、作業道が遺跡として点在している。中でも原型を残した公衆浴場のボイラーは見ものである。区画内の概要は文献[22]に報告されているので、関心ある方は参照されたい。
 前述の「左に入る薄い踏跡」は、微流の渡沢部が特に不明瞭で、よく見ると石組みでできた古道の橋脚のみが残っていた。何もない山中ならいざ知らず、廃墟でもなお立派な鉱山施設跡の前では目立たなかった。右股敷地最下部に位置する落葉に埋もれた何となく人工的な石組み、と思っていれば何とか判別できるだろう。道はすぐ明瞭になり、二股の中間尾根を回りながら緩く登って、約百米先で左俣の鉱業所敷地に至った。左岸の幾つかの小施設跡で、方形に打った鉄杭、角柱の破片、厚板、バール、電線が絡んだガイシの破片を見た。電気は、柳瀬商工から鉱山と共に買収した新羽の鉱山用発電所[13]から引いたものと思われる。鉱物が関係したのか、水酸化物っぽい沈殿が見える汚い左俣を渡ると、その右岸にはやはり広大な敷地にだだっ広い整地が点在し、右股敷地同様の多様な廃棄物が見られた。興味深かったのは、鋼索鉄道のレールの集積(5Mレールが5本程度)や、半ば埋もれた日本麦酒鉱泉(現三ツ矢サイダー)、野田醤油(現キッコーマン)、大日本麦酒(現サッポロ・アサヒ・ヱビス)の空き瓶の破片であった。文献[22]は瓶の刻印を根拠に、この施設を日窒以前(鈴木えつ時代)のものと推定しているが、鈴木は大規模事業を展開しておらず、そもそも飲料瓶は十年程度は再使用されるものなので、やはり日窒の施設と見るべきであろう。

 

⌚ฺ  六助沢出合-(1時間20分)-三峯鉱業所跡 [2018.3.29]

● 三峯鉱業所跡~六助沢右岸尾根1351M鞍部(保安林看板)

 三峯鉱業所跡までの間、沢の荒廃に加え、堰堤建設や鉱山開発により古道の痕跡は全く残っていなかったが、坂本によれば、六助沢に入って50分で鉛掘りの小屋があり、その上で雁掛峠への道を分けて宗四郎の下に達する[3]というので、地形的にみて六助道は、三峯鉱業所跡付近から1090M圏二股の左俣窪を、宗四郎方向に登っていた可能性が高い。また古い鉱山付近の地質図[19]にも左俣窪を登る道が示されている。
 左俣敷地のすぐ上からは埼玉県の県行造林地であり、激しく伐採された荒廃地になっていた。窪の荒れた左岸の、細い二次林と礫を行く微かな踏跡を登った。今度は、伐採時の古い一斗缶や空瓶・空缶などが落ちており、残念なことに六助沢はつくづく見捨てられたゴミの宝庫である。伐採後の崩壊で生じた巨礫で窪が埋まり歩き難くなり、中礫が上手く詰まった涸窪を登るほうがむしろ快適になった。窪の傾斜が次第に強まったあたり、原が報告したとおり古道は緩やかな谷の山腹を電光型に登っていたはずだが、今は皆伐後の崩壊のため、山腹は通ることすら多少の危険を感ずるほどだった。
 窪がますます急になり露岩が増えてきたので、さすがに崩壊気味の右岸斜面に逃げざるを得なくなった。注意深くステップを切って斜めに登り出すと、時々踏まれた気配が感じられた。最後に多少踏跡の雰囲気が出てきたころ、六助沢右岸尾根の1351M鞍部に辿り着いた。この鞍部、すなわち六助ノ頭(上武国境1490M圏ピーク)とそこから南に派出する尾根の1394独標の最低鞍部付近の地形は極めてややこしく、地形図では1340M圏鞍部があるだけだが、基盤地図情報で分かるように、実際には北から、1351M、1348M、1347M、1352Mの四つの鞍部がほぼ等間隔に連なっている。実際、後日行った時、地形からは前回の位置を正しく認識できなかった。しかし幸いなことに、六助道が登り上げる1351M鞍部にだけ「保安林」の看板が立っていたので、良い目印になった。

 

⌚ฺ  三峯鉱業所跡-(25分)-六助沢右岸尾根1351M鞍部 [2018.4.12]

● 六助沢右岸尾根1351M鞍部(保安林看板)~スミノタオ

 

 道はM字の折返しで山吹沢側の県有林山吹沢9林班のヒノキ植林に入り、緩く下っていた。今はただの作業道に過ぎないが、常に傾斜を緩く取る道の造りからして、これが馬道のようだった。牛乳瓶、栄養ドリンク瓶を見て、小尾根を回るとカラマツ植林の良道になり、六助道に入って初めて馬道が明確に感じられた。国境下の伐採地に入ると鹿柵が現われた。プラスチック標にH29とあるので平成29年の設置と分かった。通行用のヒトが漸く潜る小さな穴から中に入ると、崩壊気味の一面の無立木地だった。後日聞いた担当官の話では最近鹿の食害のため崩壊が多発し、網を張って植林してもそれも崩壊で流されるなどして、成果が上がらないと嘆いていた。ここもどこかから侵入した鹿に全て食べられてしまったのかも知れない。崩壊で薄くなった馬道の痕跡を数十米も行くと、出口があった。向こうに出てすぐ、いよいよ崩壊が強まり道が消えかかったと思うと、宗四郎の真南の出る小窪の、息を呑む大崩壊に行く手を塞がれた。見える範囲で50Mほどの幅があり、小尾根の向こうにも同様の崩壊がある可能性があった。この大崩壊は十年ほど前に起きたものらしく、現在も少しずつ崩れている様子だった。
 有無を言わさず、崩壊を高巻くことになった。鹿柵の西側に沿って、設置作業時のものと思しき痕跡を登った。崩壊の規模は大きく、鹿柵上端付近で初めて西向きの踏跡に出合った。これで崩壊を巻けるのだろう。明瞭な踏跡を約50M行くと、そこが崩壊の上端だった。いや正確には、垂直に落ちる崩壊の最上部であった。つまりこの作業道も、崩壊に呑まれていた訳である。その上も崖状でさらに高巻くことはできず、踏跡は水平に張ったトラロープに体を預けながら、地面に対する応力に依存した静摩擦力で崩壊上部を水平移動して抜けるのである。自パーティーのザイルならともかく、よく分からないトラロープに頼るのは危険な場面であったが、これも平成29年設置とまだ1年たたないものだったので、張り具合良好にことを確かめ利用して渡った。作業道は見た目20-30年前の桟橋を通り、その後も幾つかの古桟橋を見ながら水平に続き、1410M付近で宗四郎西尾根で、見た目で明らかに分かる馬道に合流した。
 ここで合流した馬道を逆に辿れるかを、念の為確認しておいた。初めの20Mだけは綺麗な道だったが、Z字の折返しで不明瞭になり、倒木や小崩壊を跨ぐ痕跡程度になった。緩く下る痕跡はやがて明滅を始め、宗四郎の南尾根に近づくに連れ、次第に渡るのを躊躇するほど崩壊が強まってきたので、引き換えした。大崩壊東端とこの引き返し地点とは、林道が持つ一定勾配を考慮するとよく接続する地点であり、間違いなくこれが馬道の続きと思われた。
 馬道はほぼ上り下りのない水平な良道になり、急にピッチが早まった。点々と打たれたテープが、現役の作業道でもあることを示していた。空が開けた緩い山腹のプロムナードが続いた。宗四郎から緩く降りてきた上武国境が近づき、やがて一度稜線に乗った。橋のように道普請したように見える馬の背状を渡ると、マーキングを付けて稜線を忠実に辿る作業道から離れて、武州側に回り込む馬道はとたんに荒れてきた。国境の作業道と交差して、今度は上州側を絡み始めた。崩壊部に渡した腐敗した桟橋を渡った。北側は雪道で、この峠道の特徴がよく現われていた。北面はやや山腹の傾斜がきつかったが、馬道の道型は何とか残っていた。道が天丸トンネル上に差し掛かると、左上の国境のコルへと登る道が分岐した。ここが、正確にはこの左上の道を数十秒登った国境のコルが、石祠と境界標石が置かれたスミノタオ(1356M)である。国境稜線には作業道が走り、今来た道が武州側へと下っていた。つまり厳密に言えば、石祠のあるスミノタオを越えるのは広河原から来て山吹谷の源頭を絡んできた道であり、六助道はスミノタオ東方の無名地点で国境を越え、スミノタオは北側の直下を通過することになる。
 なおこの区間の馬道のうち、保安林看板の1351M鞍部から宗四郎南尾根までの区間は、大滝村森林図に収載されている[25]。当時その部分が、作業道として使われていたためであろう。

 

⌚ฺ  六助沢右岸尾根1351M鞍部-(10分)-大崩壊東端-(高巻き20分)-宗四郎西尾根-(15分)-スミノタオ [2018.3.29]

 

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • スミノタオ(六助ノコル)

 

[22]石渡慎一「秩父鉱山六助鉱床の歴史と今」(『水晶』第二四巻、一四~一七頁)、平成二十五年。

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車道の橋からみた入口付近の六助沢
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迫力ある7Mの第一堰堤
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同じく7Mの第二堰堤も手強い
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足を置きたくない腐敗桟橋
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柱状節理のミニゴルジュ
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12M斜滝は右岸支沢を使って巻く
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振られそうで嫌なトラロープの8M斜滝
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鋼索鉄道のレールが見事に刺さっていた
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1022M二股は右股の鉱山汚染が酷い
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二股中尾根の中和タンク台
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時々車輪も水中に見える
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沢近くの右岸の抗口
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鉱業所跡の右股敷地の一角が見えた
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寄ってみると斜面に無数の跡地が
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風呂のボイラーだという
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道は1090M圏二俣の中間尾根を回る
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左股敷地は流れの右岸に広い
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何本もレールが放置されている
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何もない広大な敷地が幾つもある
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日本麦酒鉱泉と野田醤油の空瓶
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微かな踏跡が左股右岸を行く
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この辺りは左股窪を直接登った方が速い
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不安定な崩壊地を注意深く登る
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尾根直前で馬道の雰囲気が
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保安林看板の1351M鞍部で尾根を超える
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宗四郎を正面に見るカラマツ植林の良道
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荒涼とした伐採地で鹿柵に出合う
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大崩壊で道が途切れた
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約70M上の作業道からの危険な高巻き
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古桟橋が残る作業道
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馬道に回るも道型すら不明瞭
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倒木で荒廃が酷い
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作業道合流後はテープが付き明瞭
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ついに上武国境に出た
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馬の背状の特徴的な部分
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雪の残る上州側の腐った桟橋
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スミノタオ直下で広河原道を分ける
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僅かに寄道したスミノタオの石祠