奥多摩湖には、平成三十年現在二軒のごく小さな温泉宿がある。江戸時代には名の知れた温泉地であった小河内温泉の、かつての繁栄を振り返ってみたい。

位置

鶴の湯位置図(青線:旧河道、赤線:旧道路、黄線:現国道)

 小河内ダム(通称:奥多摩湖)の湖底には、鶴の湯という著名な温泉があった。村ごと完全に沈んでしまったため、かつて鶴の湯があった付近の湖畔には、現在全く集落がない。位置は、熱海集落と麦山集落のちょうど真ん中あたりで、小字名は湯場と言った。今は人家もないのに「湯場」というバス停だけがある。本当の温泉の位置は、「湯場」バス停がある室沢の右岸尾根(国道は室沢トンネルで通過している)の先端の湖底である。またその西隣のバス停「女の湯」脇に「鶴の湯温泉源泉」というものがある。詳しく言えばこれは本来の鶴の湯と完全に同一ではなく、新たに引湯したものだが、湖底に沈んだ源泉にかなり近いものである。

湯客で賑わう鶴の湯(江戸時代と推定)[1]

歴史

 鶴の湯の起源は数百年前に及ぶと見られ、温泉神社の懸仏には延文六年(一三六一年)と刻まれている[1]。この温泉神社は原島讃岐守直義の働きで建てられたとされ、代々湯本として原島家が守ってきた。寛文年間(一六六一〜一六七三年)には、原島古逸(小一郎)が湯宿を開業した[2]。当主の原島古逸は学問に通じていたので、亀田鵬斎、酒井抱一、十返舎一九、釈敬順などが訪ねて来ては語り合った。その結果次第に江戸でも鶴の湯の名が知られるようになり、温泉と景観を求め多くの文人雅客が訪れた。以来、幕末の林鶴梁、真田謙山、明治の徳富蘇峰、昭和の北原白秋など、訪れた名士には事欠かかず、多くの紀行が残されている[1-3]。
 鶴の湯は、江戸から青梅街道を通って来る多くの入湯客でたいそう賑わい、土地の風儀が悪くなるから断ろうと村で議決したこともあるという。さらには湯を樽に詰めて江戸などへ出荷して、評判を得ていた[4,5]。当時の繁栄の様子が、江戸時代のものと思しき「武州多摩郡小河内原温泉画図」[1]によく描かれている。なお、小河内原とは小河内郷・原村の意味で、鶴の湯温泉を含む原地区は一つの村を成していた。絵図を見ると、二階建ての湯宿は満室、路上も行き交う籠や人馬で賑わい、隣には立派な温泉神社、向かいには湯本の原島家と思われる湯滝のある大きな旅館があり、淙々と流れる多摩川の河原には、小さな虫の湯の浴槽がある。付属の里数表には、日本橋の他、川越、八王子、青梅、府中、五日市の他、飯能、所沢、大宮(註:秩父市の旧称)、上野原、谷村、甲府などが記され、近隣から多くの客を集めていたことが伺われる。

効能

鶴の湯全景[8]

 温泉は優れた効能を持っていた。伝説によれば、傷ついた鶴が飛来し三日ばかりの逗留後元気に飛び去ったことが、鶴の湯の起こりとされる。打撲・創傷に効くとして、江戸の他、近国にまで名が知れ、文化十年に江戸の僧敬順が、「此の湯一切の金瘡くじきに効験あること神の如くで、相州湯が原の湯に増ること十倍である」と記している。地元の猟師も、熊や猪との闘いで皮膚を裂かれた犬も、針で縫いこの湯で洗えば数日で全治すると語ったという[2]。明治十九年内務省衛生局発行の日本鉱泉誌によると、外傷、骨折、打撲、火傷、皮膚病、脳病、頭痛に有効とされていた[6]。
 また温泉の成分は、二七〜二九度のアルカリ性の硫黄泉[6]、大正元年に東京府が刊行した東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志においても八七〜八九ファーレンハイト(三〇・六〜三一・七度)のアルカリ硫黄泉[7]とされ、微温のため少し加熱して用いていた。湯は透明もしくは少し白味を帯び、飲むと腐卵臭味、入ると肌触りがツルツルしたという。また湯量は豊富で、源泉から溢れた湯が湯滝となって多摩川に注いでいた[8]。
 集落の西側に約二米四方の源泉が三つあり、湯壷と呼ばれていた。緑色を帯びた池底の小石の間から、湯気を立ててブクブク湧いていた。旅館を始め村人も、毎日手桶や手押し車で自家の浴槽に運んで入っていた。鶴の湯の他、小規模な虫の湯、目の湯(女の湯)もあり、合わせて小河内温泉と呼ばれていた[2,9]。温泉神社の両脇に鶴の湯と並んで、「シカノユ」という小さな源泉もあった[1]。

名称


井戸のような源泉[1]

 ところで温泉の名称については、湯に浸かった傷ついた鶴に由来するとされるが、実際のところ次のようなものではと想像することもできる。甲斐の東端にあたる多摩川・相模川流域の一帯は、都留と呼ばれているが、多摩川沿いでは甲斐と武蔵を隔てる明瞭な自然の国境がなく、その時々の力関係で決まっていたようだ。何分深い山中であるため、鶴の湯が開かれた戦国時代の国境は定かでなく、一説では境村(現在の奥多摩町境、氷川から東へ約二粁の地点)が国境であったと云われている[1]。とすれば、当時の鶴の湯は甲斐の都留地方一部なので、都留の湯と呼ばれるのは自然であり、さらに「都留」は「鶴」の嘉名で呼ばれることがあるので[1]、鶴の湯となったとの推測が可能だ。近くの鶴峠、鶴川などの地名も、ひょっとすると同じ経緯なのかも知れない。

近代

 明治時代以降、多くの写真・紀行・ガイドが残され、温泉街の雰囲気を知ることができる。明治十七年刊行の「A Handbook for Travellers in Japan」(2nd ed.、Sir Ernest Mason Satow著、John Murray publisher)に記された明治初期の温泉宿は、ノミの多い粗末な湯宿とされていた[10]。同三十九年、鶴屋に宿泊した武田久吉は、冷たい布団に形ばかりの朝食で、作って貰った昼の弁当は貧弱極まるもので、おかずは干からびて板のようになった干魚だった。「あまりの不味さに此の家の黒猫に投げ与えたところが、流石の猫も頭だけは喰い得なかった程であったのも可笑しかった。」と述べている[10]。一方、翌四十年、鶴の湯を訪ねた文人としての顔を持つ佐藤北嶺(吾一)は、同じ鶴屋に投宿し、川に面した八畳間に通されると、河岸が深いため僅かしか見えず水音のみよく聴こえ、夕食の芹の料理はとても美味しかった[11]、と記しており、単なる旅館として宿泊した武田との違いを際立たせている。宿には銭湯の半分くらいの大きさの湯船があり、客は少なく静かだったという。翌日の大菩薩(柳沢峠)越えに備え、あんまを頼み足を揉んでもらったそうだ。

湯宿からの眺め[9]

 大正末期から昭和の初めに掛け、湯宿は道の両側に八軒ほど建っており、鶴屋、青木屋の二軒が比較的良い宿とされていた。他にも鶴の湯本、高野屋、松野屋、清水屋などがあった[8]。鶴屋に泊まって窓の外を見ると、唐辛子のようなものが干してあり、下方に多摩川が淀みなく流れていたという。しかしいずれにせよ宿はどこもあまりきれいでなく、再訪時に泊まった新築の鶴屋の別館がきれいで居心地が良いとしている[2,4,9]。青木屋に泊まった旅行者も、熱い湯壷につかり二階の一室で寛いだと記しており、鶴屋と大差ないものだったようだ[12]。
 昭和五年現在、奥の丹波山村では電気が通じていたのに小河内はまだランプだった[12]。鶴の湯から五、六百米先で両岸が狭まり、松の木の間に二三軒の人家が見えると目の湯だった。さらに五、六百米で、村役場や郵便局・小学校が有る河内となり、その先には、麦山や川野の集落があった[9]。それでもこの年、当時の青梅線の終点御嶽駅から氷川(現在の奥多摩駅)まで路線バスの運行が開始され[13]、そこから乗合の小型ハイヤーに乗り換えれば[14]、鶴の湯まで入ることができるようになった。桃源郷のような小河内村も次第に開けて来たと思われ、昭和十年代に入ると村人の生活も平野部の人と何ら変わること無いものになっていた[4]。
 しかしその頃降って湧いた、小河内村全体を湖底に沈めるダム建設計画のため、気の早い村民は村を捨て、小河内は急速に荒廃し始めた。強硬な反対運動も鎮圧され、工事が始まったのが昭和十三年のことである。鶴の湯では二、三軒がダム工事の宿舎になっていた。工事のためであろう、もうランプではなく電灯が点いていた[9]。第二次大戦により工事が五年間中断された間、再び耕作が可能になった村に村民が戻り、疎開のため移ってくる人もいて、一時は賑わいを取り戻したが[15]、工事再開と共に活気を失った。鶴屋を始め四軒の旅館が最後まで営業していたが[16]、昭和三十二年のダム完成と共に鶴の湯は湖底に沈んだ。

現在

 現在の鶴の湯と呼ばれる温泉は、湖底に沈んだ本来の鶴の湯近辺から新たに貯水前に引湯しておいた源泉のもので[17]、奥多摩湖愛護会から受け継いだ小河内振興財団が運営している。鶴の湯、虫の湯、シカノユ三湯の源泉から引いた混合泉であり、さらに引湯工事による新たな水路建設とダムによる水圧の発生との影響があるため、完全に同じものとは言えない。しかし工事前後の比較では、旧鶴の湯の三十度、一三五リットル/分に対し、新鶴の湯は三十一・二度、三二〇リットル/分であったといい[17](値はその後の測定ごとに多少変化している)、温泉成分にも殆ど変化がなかった[18]。アルカリ性単純硫黄温泉とされ、無色透明で硫化水素臭と硫黄味を伴うツルツル感は、旧来の湯と違わぬもののようだ。なお、新源泉の位置は旧来の目の湯(これも湖底に沈んだ)にごく近いが、直接の関係は無いようだ。
 集落自体が沈んでしまったため、湖岸の国道脇に引いた源泉付近には何もなく、湖岸に移転してできた付近の集落の宿にタンクローリーで運んで給湯している。平成三十年現在営業中の湯宿は、原の「小河内荘」と麦山の「馬頭館」の二軒で、現在の源泉から一、ニ粁の位置である。他に二、三の日帰り温泉がある。温泉は移送利用のため、遠方の旅館での使用や、販売も行われている。


【参考文献】
[1]東京市『小河内貯水池郷土小誌』、昭和十三年、三五、一四八〜一四九、一七一〜一七六頁付近、裏表紙裏。
[2]高橋源一郎『秩父多摩 山・総の海』武蔵野歴史地理学会、昭和七年、五、四七〜五一、一一七〜一一八、二二〇頁付近。
[3]中西慶爾『青梅街道』木耳社、昭和五十七年、二一五〜二一七頁。
[4]高橋源一郎「秩父・奥多摩の今昔話し」(『ハイキング』七五号、一一〜一三頁)、昭和十三年。
[5]東京都教育委員会『歴史の道調査報告書集成20』海路書院、平成二十年、三九三〜三九四頁付近。
[6]嶋田誠「奥多摩の隠れたる湯場を探る」(『ハイキング』四一号、七〜一四頁)、昭和十年。
[7]東京府『東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志』、大正元年、三九〜四〇頁。
[8]温泉調査会『療養本位温泉案内 関東篇』白揚社、昭和十二年、七〜九頁。
[9]岩田静枝「湖底に沈む小河内温泉」(『ハイキング』八九号、五六〜五八頁)、昭和十四年。
[10]武田久吉「大菩薩峠雜筆」(『霧の旅』一七・一八・一九合併号、一六〜二九頁)、大正十五年。
[11]佐藤北嶺『山より水へ』青年評論社、大正四年、三〇〜三四頁付近。
[12]松尾秀一『武蔵アルプス遊行記』隣人之友社、昭和八年、「多摩川遡行記」一〇四〜一一三頁。
[13]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(三)」(『OMCレポート』二三六号、ニニ〜ニ五頁)、昭和四十四年。
[14]梶玲樹「奥多摩─その山と川─(一ニ)」(『OMCレポート』二四六号、一六〜一七頁)、昭和四十五年。
[15]守田優「多摩川をめぐる住民運動史に関する調査研究」(『とうきゅう環境浄化財団一般研究助成』一四八号)、平成十六年。
[16]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ11 奥多摩』朋文堂、「小河内温泉」五九〜六〇頁、昭和三十年。
[17]奥多摩湖愛護会『湖底の村の記録』、昭和五十七年、「二十四 霊泉鶴の湯温泉を湖畔へ引揚に成功」三二三〜三三一頁。
[18]倉持文雄「奥多摩湖に水没した鶴の湯温泉の復活について」(『応用地質』一巻二号、三〜六頁)、昭和三十五年。