原全教の上武国境・馬道のコル越えの径路推定

 謎に包まれていた、昭和六年の原全教の上武国境越の径路を推定してみました。武州広河原から馬道のコルを越え上州奥名郷に至る径路は、原自身が濃霧の中、迷いながら国境越えをしたため不明でしたが、著者が道を捜しつつ広窪を下った時の様子と酷似しており、基盤地図情報の詳細地形図ともよく一致したことから、結果として径路がほぼ推定できたものと思います。まさに瓢箪から駒でした。

 数回に渡る原全教の上武国境越え

  幾度か行われた原全教の上武国境越えのうち、経路が明らかでないものが一つある。昭和六年正月※の通行記録で、奥秩父・続に収録された紀行文「乙父沢の奥を歩く」に収録されたものである[1]。武州神流川(中津川から北に分かれる大きな支流で)を遡り、源流を詰めて上州奥名郷に抜けた山行だが、迷いながらいつの間にか国境を越えたため、原独特の極めて詳細な地形や道の記述にも関わらず、これまで読んでも経路が特定出来なかった。原は、現地の馬道の接続を知らないまま、しかも濃霧で全く見通しの利かない中、積雪で道型が消えがちな山中を、迷いつつも何とかほぼ最適な経路で上州に抜けたのは、流石と思える。比較の必要があるので、少々長いが以下に原文を引用する。
※文献[8]および「奥秩父回帰」(原全教著・河出書房)のp38-39,194-198,237の記述より、通行日が知れる。
 

(後段の記述の対応箇所に、赤太字で( )付き番号を挿入してある)
源流地の迷路
 朝の御雑煮を食べてゐると、急に幼時が思ひ出されて故郷が懷しくなつた、昨夜あれまでに完膚なく批判されたのだけれど、人々の温情に對しては、矢張りしんみりした気持で別れた。(前七時三十分)上流へ向つて行くと、直に右に小さな窪がある。廣窪と云ふものであることを後で知つた。また小径に沿ふて二軒の住家がある(1)。そここゝの山腹には煙が上つてゐる。奧の方の家で道と聞く。赤坊を抱いた若い主婦が傍の主人を起すと、床の中からむつくり頭を上げたのが、昨夜爐邊の異色であつた山人である(2)。敵地で味方に遭つたやうな心強さを感じ、あたりの地理を聞く。これからこの澤の源頭をつめて、乙父澤の方へ出るのを知つてゐるのは、この界隈この人だけらしい(3)
 少し行くと又右に小窪がある。地圖には廣河原から上流、窪が大變離れたやうになつてゐるが、實際もつと接近し且つ奥の方の扇のやうに開いた所も、すつと下流でなければならないと思ふ。さらに少し行くと大きな澤がある(4)。それを目指して右へ這入つて行く。路とては全然ない(5)。嫌な雨が降つて来た。二、三日馬鹿気て暖いと思つたのも、かうした前兆だつたのか。澤は伐採されて可なり酷く荒れてゐる。一寸した瀧もある(6)が、澤が眞南へ向いてゐる爲に雪も少なく割に歩きよかつた。
 暫くすると右から注ぐ澤が瀧のまゝ氷結してゐた(7)。(前八時十分)天気は盆々惡くなつて来た。澤は又左右に等分される。(前九時)右の方を覗くと一寸奥で又二つになつてゐる(8)。左の方へ入りどしどし登る。伐採後の荊棘が酷いので登り辛い(9)。やがて一筋り細径が左右へ突つ切つてゐるのに出遇つた(10)。左へは一寸足跡が這入つてゐる。下でこの澤へ這入つた位置から考へて、この左へ行くものは天丸山南あたりへ出るものと想像された。
 その心算で左へ左へと巻いて行く。間もなく右岸をなす尾根を越えて、隣の窪みへ入ると、打つて戀つたやうな陰鬱な原生林となつた(11)。と同時に雪が多くなつて来る。腐朽した丸太一本の棧道が随所に通じてゐる。林道と云つても、殆ど手を入れてないものだ。秩父の主脈を横断する林道や、多摩川上流の市有林道などに比べると、本當に甚しい相違を認めない譯には行くまい。小さな尾根を三つくらゐぐるぐる迴つて、いつとなしに廣い谷間へ降りてしまつた(12)。径は深い雪に覆はれて、もう尋ねべくもなかつた。
 あたりは嬉しい程深味のある潤葉樹林である。雪の中を右往左往してみちの續きを捜索してみたが、それは結局徒勞に終つた。濃い霧で尾根筋までの模樣も判らないが、可なり距離かありさうだ。若し自分の辿つて来たものが林道であるとしたなら、もつと尾根近くを巻かなければならない筈だ。さうした怪し気な推理を今は唯一の頼みとして北の方へ攀ぢてみる。所々岩が露出し意外に大きな檜が突つ立つてゐて、愈々幽邃さを増して来る(13)
 三十米、五十米と凡そ不安な登攀を續けて行くと、この山勘が美事に成功して、百米も苦しんだ頃漸く路形を見つけた。併しそれとても木の根岩角の些細な動機にでも、動もすれば消えようとする、不明瞭極まるものであつた。足跡も無論こゝまでは来てゐなかつた。いづれ途中で谷中へでも驅けこんだ、猟師の跡だつたのに相違ない。兎に角曖昧な路形を虎の子のやうにして辿つて行くと、大きな尾根へ出てしまつた。(正午)方角が全然判らない。今自分の来てゐるのは天丸山の南の一角とすると、磁石が狂つてゐると云ふ結果にならざるを得ない。
 加ふるに林道らしいものは身丈に伸びた笹の中を、幽に今自分の巻いて来た小峯の後方を巻き、むしろ自分のやつて来た方へ戻るやうな気もする。益々迷つてしまつたが、気休めに北道へ少し這入つて見ると高い笹へ積つてゐた雪が顔や頚筋からふりかゝり忽ち追ひ返されてしまつた。尾根の平な所を行かうとすると、南東の方へ向ふやうになる。その尾根さへも、三十間向ふの霧の中には、測り知れない不安を包んでゐるやうだ。しかもこの尾根を境として、どちらも陰慘な谷だ。それが武上何れに屬するかも判らず、驀直に進入することも、一昨々日の信濃澤の痛手を考へると、鈍つてしまつた。
往路へ
 嚴肅な数秒の後、くるりと後向きになると急に頭が輕くなつた。突然引き返すことに肚を決めたからだ。併しさき林道を見失つてから無暗に掻き登つて来た尾根の隣りで、又不安を取り戻させられた。斜面の急な所ではたつた今通つたばかりの靴跡さへ簡単に見出されなかつた。憂鬱な檜の密林中を切り抜けて、いくらか斜面の緩い所へ来ると、點々と深雪に印された我が靴跡を見た。又沈静な旅情を恢復して最初踏みこんだ伐採の窪(10)まで歸つて来た。(後一時三十分)そこから見上げるといくらか霧も薄らいで、武上境の尾根も間近である事を知つた。餘り藪が酷いので押し分ける勇気もなかつた。今逃げて来た小径の續きを辿つて、東の方へ巻き始める。伐採で藪が酷いけれども、十分くらゐの辛抱で次の澤へ這入る(14)。先下から登つて来たとき右へ分れた澤は尾根までは抜けてゐないやうだ。小径はなほ等高に巻き尾根角で消えてゐるが、途中で澤へ降る分岐もありそこに小屋の潰れたのもある。もう一つは自分の傍から國境を越してゐる(15)。自分は何れにしても國境を越したい希望があるので上の方へ行く。尾根筋は西の方が全然切り開けがないが東の方は踏跡が通じ、途中に小さな鳥居が立つてゐる(16)。武州側は伐採の爲め明るく、相當遠望の利く譯なのだが、猛烈な霧の爲に總ては疑問に包まれて如何とも仕樣がない。上州側は全くの大森林で、矢張り霧の爲に一層深味を感ずるのであつた。
 雪は深いが小径は幅廣く明瞭である。どしどし辿つて行く。大きな棧道が到る處墜落して、この道も伐木運搬用に榮え、今はもう廃道の運命に置かれてあるらしい。全く五里霧中ながら、推測によれば千三百四十一米の峯の西北の、数字のある尾根の西側を巻いてゐるやうだ。途中ほんの一部伐つた跡はあるが、全體から云ふと、慥に秩父山地でも一流の森林であるを疑はない。やがて原生林と伐採の境界へ出た。今まで巻いてゐた尾根を乗り越す(17)やうになると、前方東面は急に開けて明るくなる。路が段々よくなり、小さな澤へ降るやうになり、畑地が見えて来ると里臭が漂ふた事を否めない。雨はいつしか霙と變つてゐて、白粒と水滴の乱舞の中に一軒家を見出した(18)。早速立ち寄ると、鑪を圍んで主人と山支度に足にカンジキをつけた客人とが會談中だ。午前からの疑を晴らすべく、自分の位置を尋ねるとこゝは奥名郷であると云ふ。自分の頭は全く混乱の渦中に捲きこまれてしまつた。
 自分は實際天丸山の北尾根を越したのである事が判つた。又さき國境で、東の踏跡の入口にあつた鳥居は、天丸山の祠のである事も知つた。主人の言では天丸山は仲々よい岩峯で、眺望が勝れ、晴れた日では高崎までも見えるさうだ。そして若し天丸山へ登り度いなら、穢苦しいのを我慢して泊り、明日登つたがよいと、親切に云つて貰つた。併し今の自分の気持は餘り気乗りしない程沈滞に墮してゐた。


 ところで、昭和中期の幾つかの上州・天丸山の記録に、馬道のコルから広河原の方へ下る道があるとの記述が見られ、かつて現地で焼いた炭の搬出路として使われていたとの記述がある[2-4]。しかし不思議なことに、明確な行き先や径路の説明がなく、広河原まで続いていたのかすら定かでなかった。そして数少ない秩父側から登った文献[1,5]には、広河原から馬道のコルへと続く道の記載はない。
 さらに言えば、神流川の大黒から広河原にかけては深い縁が続く険悪な区間で、特に広河原の下約1.5Kの区間は悪谷と呼ばれ、水晶滝の通らずを要する難所である。地形図や原、坂本らの付図に道の記入はなく、坂本は広河原から六助沢出合までの今なら40分の道のりを、萬衛門倉まで高巻いて1時間40分かけて下っている[5]。初めて安全に通れる道が開通したのは、恐らく昭和15年前後であろう。というのも、この年、日窒鉱業の選鉱場が完成し、大黒抗で本格的な採鉱が始まった[6]からである。開発に必要な坑木は、広河原沢の奥で伐採され、軌道、索道、そして神流川に沿う馬道と繋いで運ばれた[7]という。つまりそれ以前は、広河原に続く馬道は、おそらく現在の上野大滝林道に近い道筋を通り、スミノタオを越えて上州・野栗沢に続くものしかなかったと考えられる。
 最近、実際に馬道のコルから広河原付近まで下って見たところ、丹念に探したがやはり広窪沿いにはそのような馬道は痕跡すら見つからず、恐らく存在しなかったものと思われた。原が、山を知り尽くした地元の猟師に聞いて登った道筋に、それらしい立派な道がなかった[1]とことから、少なくとも原が訪れた昭和六年正月にはここに馬道がなかったことは、確かであろう。
 しかし同時に思わぬ収穫が得られた。途中で見た源流の道の痕跡や地形が、原が記した記述と非常によく一致したのである。さらに基盤地図情報を使って1m間隔の等高線で書かせた精密地形図とも一致した。原の地形描写の正確さに改めて感心すると共に、長年謎だったその時の上武国境越えの径路概略が明らかなった。

 武州神流川源流地域の地名

 山岳家が全く目を向けなかったこの山域に足を踏み入れ記録を残したのは、僅かに原全教、坂本朱(勝司)のみである。地元の秩父山岳会の坂本は、張り巡らされた馬道や山奥の炭焼人の家をうまく使って、上武国境を効果的に巡っている[5]。地誌的資料が殆どない武州神流川流域で、坂本が示した付図は極めて貴重な資料である。原の付図も詳しいことで知られるが、こと武州神流川流域では、近くに同名の沢(サヤギ沢)が二つあったり、版により沢の名が変わったり(無名沢→シダクラ沢)、付近を通る雪久保林道と馬道を混同して説明するなど、信頼性欠けるきらいがある。そこでここでは、坂本が示す地名に従いたい。
 

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坂本が示した広河原周辺の地名[5]、カッコ付赤太番号数字は本文中の対応箇所、赤細線は原の推定径路この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)及び数値地図25000(地図画像)を使用した。(承認番号 平24情使、 第142号)


 坂本の付図と説明[5]によれば、地形図では南天山の右に「広河原沢」の文字があるが、ここはまだ下流と同じ神流川で、広河原と呼ばれる1000M二股の右股が本流、左股が広河原沢である。本流も広河原から奥はマナイタ沢と名を変え、恐らく1080M二股の右股あたりと思うが、天丸山下の源流は広窪と呼ばれる。1080Mの左股は原によればザレ窪と言い、上武国境の1609独標に突き上げている。近年「馬道のコル」と呼ばれる、広窪を詰めた天丸山下の上州への乗越を、坂本はヤハズとしている。一方原は上州で、ヤハズを帳付北の岩尾根と聞いておりはっきりしないので、この乗越は現在の名「馬道のコル」と呼んでおこう。神流川支流の広河原沢は、1090Mで右岸に鞘木沢(サカキノ沢と記した箇所もあり)、1180Mで足切沢を入れ、水源は上武国境のオオツ(1658.1M)である。当時マナイタ沢には数軒の炭焼の家が、両者の本文と付図とに示されている。
 神流川上流の馬道については、文献では三本の径路について言及されている。一つ目は上州・奥名郷から馬道のコルを越えてくるもので、馬道のコル~林平小屋(広河原沢の源流付近)を坂本が歩いており、原も道迷いにより馬道のコル~ザレ窪の区間を通り、さらに奥名郷まで下っている。実際その道を歩いた坂本は、さらに馬道が広河原沢1220M右岸支沢奥の良助小屋に至ることを示唆しており、竹内の研究によれば、足切沢右岸で雪久保林道に接続し[7]、原が記述したようにムジナ沢を経て王冠へ続く馬道となっていた[8]ようだ。原は聞書または想像により、その道が秩父側に降らずオオツ東肩に登り返すよう付図に示したが、無理があるように思う。二つ目は六助沢を登り、宗四郎の南を巻き、スミノタオ(現在の上野大滝林道が天丸トンネルで越す上武国境の鞍部)を越え野栗沢に下る道で、これは坂本や原の記録にも出る、馬が行き交う当時の国境越の主要経路だったようだ。三つ目は広河原からスミノタオに登る道で、詳細径路は不明だが、坂本は本文と付図で示しており、原も広河原で新羽への道が左岸の尾根に取り付くのを見ているので、周辺に何軒もあった炭焼の製品を運ぶ馬道の存在は十分可能性がある。この三本の馬道は、いずれも広河原から広窪を馬道のコルまで詰め上げるものではないが、坂本は記録には全く触れることなく付図のみにその径路を書き込んでいる。しかしこの三本の他、維持設備が大変な馬道をそれ以上設ける必要性はないので、そういう道があったとしてもそれはただの山道だったのではないだろうか。

 原の紀行と実際の地形との対応

 それでは、原の昭和六年の上武国境越え記録の詳細を見てみよう。「奥秩父・続」に収録された原の紀行文は、東京市山岳部年報[8]からの抜粋のため前後の繋がりが分からないものだが、同年報により当日朝の出発地は広河原近くの炭焼の元締めの家であると知れる。その家の正確な位置は、僅かに広河原沢(原は鞘木沢と記している)に入った辺りの左岸である。
 原が、広河原から本谷に相当するマナイタ沢を奥へ進むと、右に窪が入るところに二軒の家があった(1)。確かに今もこの部分の車道脇の植林中に、数軒の家が建つスペースが有る。そこに住む付近に詳しい猟師(2)に上州への行き方を聞いた結果、谷から乙父沢へ越す良い道はなくただ広窪を詰めるしかなかった(3)訳なので、広窪から馬道のコルに至る馬道は当時から存在しなかったものと思われる。引用文献にある山人というのは、紀行の全文を収録した年報[8]を見ると、この界隈で唯一人の猟師のことと知れ、また原が上武国境を越し乙父沢へ下ろうとしていたことが暗示される。
 続いて右に小窪を二本入れると、大きな沢が右から入った(4)。現在車道を歩いて行っても、その状況に変わりはない。そしてこの「大きな沢」は間違いなく坂本が云う広窪と思われ、現在車道が谷を離れるヘアピンカーブの所に数米の滝をかけて入る沢であろう。ここまでの車道化された部分も、またこの先の山道の部分でも、原の描写が著者が実際に辿った時の風景とよく一致した。

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6M滝を架けて出合う1130M圏二股の右股 基盤地図情報による1260M圏変則三股の地形(等高線間隔1M)

 原は上武国境に向け、道のない広窪を登った(5)。確かにこの窪は河原がなく狭いので、窪沿いにも斜面にも馬道を造る余地はない。南向きの沢に一つの中規模の滝があったというのは、1090M付近の8M滝のことであろう(6)。現在、植林を過ぎると低密度の二次林となっているが、原が見たときは当時は伐採され荒れていたそうだ。広河原からここまで40分で着いたという氷結した左岸支沢は、6M滝を架けて出合う1130M圏二股の右股であろう(7)。そこから50分で沢が二分し、右股はすぐ奥で二分していたというのは、1260M圏変則三股に違いない(8)。この特徴的な地形は、通ってすぐ気づくものである。
 左股窪を登った原は伐採跡の茨ヤブに苦しんだが、現在も大した木がないこの窪は、つる草が蔓延り歩きにくい部分が多い(9)
 原が三股の左股窪を登るうちにやがて出合った水平な細道は、昭和十年に坂本が報告した広河原沢源頭のオオツ直下にある林平小屋へ通ずる馬道と思われ、現在も痕跡程度の小径がある(10)。原が小径に出合ったのは天丸山の南西方向の地点だが、濃霧で地形が分からず南東の地点と思い違えた原は、小径を右に少し行けば馬道のコル付近に出るはずなのだが、乙父沢への乗越に向かおうと、誤って小径を左へ進んだ。

 

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馬道のコルから林平小屋への水平道と思しき小径の現在

 小径は尾根を回ると陰鬱な原生林になった(11)というのは、国有林境界尾根(上武国境から南東に派出する1313独標がある支尾根)を越え、皆伐された県有林から原始のままの国有林に入ったことを意味する。今では国有林も多少伐採されたが、境界尾根を廻ると暗い森に入る辺りは、現在も変わらない。この小径は坂本の報告では整備された馬道らしかったが、原が通った時点では添木の丸太が腐朽し、長く放置されていたようだ。第二次大戦期の秩父鉱山再開発に伴う資材供給のため、広河原沢流域で坑木や炭の生産活動が行われていた[7]ので、古い馬道が再整備されたのであろう。
 さらに水平道を西に進み、小尾根を三つ廻って「広い谷間」へ降りたところで積雪のため道を失った。雪の中を右往左往して探しても道の続きが見つからなかったと言うので、広い平坦地だったはずだ。著者自身は西へ向かうこの「小径」を途中までしか歩いていないが、基盤地図情報の詳細な地形を見ると、付近では帳付からの岩稜が1360M付近まで伸びていることが分かる。馬道は馬道のコル(約1430M)から下ってかわす必要があることから、原が辿り着いた「広い谷間」は、ザレ窪上流の1360~1370M付近(12)とみられる。付近で唯一、数十M四方の広がりを持った場所である。等高線沿いにさらに小径の推定径路を伸ばすと、オオツの真東の辺り、広河原沢の支沢に1370M付近の傾斜が緩んだ二股がある。馬道は少なくともそこまで続き、そこに坂本が宿を借りた林平小屋があったものと推測している。
 原は上武国境を目指して水平な小径を捨て、道のない北斜面に取り付いたが、不明瞭な踏跡や痕跡が明滅する複雑な地形の岩尾根で、方向の検討もつかないまま撤退してきた。恐らくは帳付南東の岩稜を成す支尾根のどれかであろうと推測される(13)
 結局、水平小径を発見した地点(10)まで戻ると、一瞬霧が晴れ、上武国境が近いことを知った。実際、推定したその地点と国境との標高差は約30Mである。さらに東進し、10分で1260M圏変則三股の中股(14)に出た。原の鋭い観察の通り、確かににこの窪は武州側に伸びた支尾根に突き上げているので、上武国境にまで達していない。
 原が辿った小道はなお水平に続き、尾根で途絶えたという。その手前だろうか、窪にある潰れ小屋へ下る分岐や、上武国境に登る分岐があり、登りを取った。現在、馬道のコルの武州側は様々な踏跡や道の痕跡が入り乱れていて、原の記録に相当する踏跡の候補はあるが、どれが原の記した道に相当するか確証を持つことができない。しかしこの小径を東向きに来た時、踏跡の取り方により、国境に乗り上げたり、馬道のコルの南面を通過したり、様々になってしまうのは著者も経験したことである(15)

 

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馬道のコルでみる伐採された疎林の武州側

 なお現在、ここまでに述べてきた馬道の他に、馬道のコルの黄テープから東へ下る痕跡もある。この踏跡はコルの百数十M先で不明瞭になり、痕跡が各方向に分散している。その一つを辿ってみたが、断続的に何度も途切れながら、どうも広窪右岸の高い位置を大して下らぬまま水平に1km近くも続き、斜面が急になるところで途切れているようだった。道幅の広い部分が所々にあるので、これも傾斜が比較的緩い谷の上部で焼いた炭を搬出する、馬道の一つだったのかも知れない。広窪源頭で原が見た潰れ小屋と関係するものであるのか、それとも原の訪問後新たに開設されたものなのか、確かなことは分からない。ただ山中での生産物は上州側に運ぶのが普通であり、またこの谷は下部の傾斜が険しく両岸が切り立っているので、やはり谷の上部を起点とする道は、馬道のコルを越えて上州側に繋がっていたのではと推測される。
 原は容易に、当時鳥居が立っていた馬道のコルで国境を越えた(16)。原は武州側が伐採されて明るかったと述べたが、その後植林されていないためそれは今も変わりない。稜線上は東に向け、鳥居をくぐって天丸山の参道が続いていたという。上州側に続く馬道に入ると、道幅は広いが荒れが目立ち、原が通った時点では廃道化しつつあったという。当時の大森林は伐採され、現在見事なまでに消えてしまった。現在道が良いのは、伐り出し時に補修したためであろうか。社壇乗越(17)で天丸山の尾根を越え、車道ができた今はほぼ消えかかっている旧道を下ると、急に明るくなったという。今も荒れ気味の東斜面は、当時すでに伐採されていたようだ。谷に下り着いた辺り(1050M付近)に一軒家(18)があり、辺りは畑地になっていたという。その付近は、今は植林になっている。当時の道は山腹を巻いて奥名郷へ通じていたが、今は少し下ると廃林道が現れ、900M付近で車道に合流する。

【参考文献】

[1]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、「乙父沢の奥を歩く」六〇七~六一七頁。
[2]木頭貞男「秋の天丸山」(『新ハイキング』ニニ号、七八~八一頁)、昭和ニ十八年。
[3]野口冬人『西上州の山』朋文堂、「天丸山」一一〇~一一五頁、昭和三十七年。
[4]浅野孝一「天丸山」(『山と渓谷』三ニ七号、六八~六九頁)、昭和四十一年。
[5]坂本朱「奥秩父西側尾根」(『山と渓谷』三四号、六八~七一頁)、昭和十年。
[6]赤沢敏行・北原奎司郎「秩父鉱山」(『 日本鉱業会誌』八三巻、一八二二~一八二頁、昭和四十二年。
[7]竹内昭「幻の林用軌道を求めて」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一八六~一九五頁)、平成十年。
[8]原全教「秩父の冬旅」(『東京市山岳部年報』一号、二八~六六頁)、昭和八年。