気 が遠くなるほど広いカマルグの湿原は、大部分を潟や湿った草原が占めており、殆ど人気がない。
その100km近くにもなる海岸線の中ほどに、ポツンと存在する町が、サント・マリー・ドゥ・ラ・メールだ。
湿地の地形は川の流れにより大きく左右される。中世には数キロ内陸にあったこの町は、現在町の端まで海岸線が迫っている。
通常であれば、最寄の都市アルルから、湿原を貫く地方道を走ること39kmで海岸のこの町に辿り着くことができるが、ローヌ川の水量が増える冬から春にかけては、道路が水没するときすらある。
町の名前にもなった「海からきた聖マリア達」とは、いったい誰のことなのか。もちろん伝承の世界の話ではあり、しかも何通りもあってどれが本当か分からないが、概ね次のような話が語り継がれている。
キリストの死後、マリアの姉妹であるヤコベのマリア、サロメのマリア、さらにラザロとマルタ、マグダラのマリアを初め、キリスト関係者は食料も装備もない船に乗せられ、海に追放されたという。その時岸辺まできた黒人召使のサラが、サロメのマントが小船になりサラを連れてくるという奇跡が起こり、同乗することとなった。
その後、彼らが地中海の各地に降り立ち、キリスト教を伝道としたとの言い伝えが、様々な国に残っている。これもその一つなのであろう、プロヴァンス地方では、彼らはサント・マリー・ドゥ・ラ・メールに漂着した跡、プロヴァンスの各都市に伝道に趣き、聖ヤコベ、聖サロメと召使サラはここに残ったとされている。
事実関係の正確な解明は未だされていないが、少なくともマリア伝説に加え、古代ヨーロッパに広く伝わる黒い女神信仰、ジプシーの信仰の三者が渾然一体となって、黒い女神サラが祭られるようになったようだ。
5月(ヤコベの命日)と10月(サロメの命日)の大祭の日、15世紀に発掘された聖遺物と、そして全ヨーロッパから集まってきたジプシーたちが担ぐ黒いサラの像とが町中を練り歩き、やがて海へと入っていく。
この町は、果てしない湿地帯の真っ只中にあることを除けば、見た目は人口2000人余りのごく普通の海辺の小さな町だ。それでも小さな闘牛場があるのは、さすがカマルグだ。
平時に黒い聖女(マリア)のサラの像が拝めるのは、海岸から少し入ったサント・マリー教会だ。開口部が少なく教会というより倉庫のような雰囲気なのは、要塞教会として立てられたからだ[写真3]。
その暗い堂内の地下の闇の中で、綺麗に着飾ったサラの像が、灯りに照らされている[写真2]。
教会の屋根に登ると、広大な湿原と海とに挟まれた、小さな町の全景が見渡せる[写真4]。
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