イタリアの多様さはどこからくるのでしょうか |
イタリアは面積的にはそれほど大きな国ではありませんが、きわめて多様なイメージを持っています。フランスといえばパリ、ドイツといえばライン川と中世の城、スイスはアルプス、ギリシアはエーゲ海とそれぞれ顔を持っています。もちろんそれがその国のすべてではありませんが、少なくとも国を代表する一つの強いイメージを持っています。
しかし反対にイタリアは一つの情景で代表しきれないような多くの顔を持った国であるといえるでしょう。北から数え上げても、モンテ・ビアンコ(モンブラン)やモンテ・チェルビーノ(マッターホルン)などのアルプスの山々、ファッションの街ミラノ、水の都ベネチア、中世ルネッサンスのフィレンツェ、永遠の都ローマ、陽気な港町ナポリ、地中海に浮かぶシチリア島、主なものだけでもこれだけの顔があります。
このコーナーではこれらを整理して、イタリア的なものとは何なのか、その本質に迫ってみたいと思います。
(1)イタリア成立の経緯 | |
(2)イタリア各地域の特徴 | |
・北東部イタリア | →ヴェネト地方の個別情報へ |
・北西部イタリア | →リグリア、エミリアロマーニャ地方の個別情報へ |
・中部イタリア | →トスカーナ、ラツィオ地方の個別情報へ |
・南部イタリア | →カンパーニャほか南イタリアの個別情報へ →シチリア島の個別情報へ |
・サルデーニャ | →サルデーニャ島の個別情報へ |
(3)歴史の生き証人たち |
(1)イタリア成立の経緯
イタリアには20の州と2つの国があります。「2つの国」は正確には外国になるのでイタリアではないのですが、サンマリノ共和国とバチカン市国です。
イタリアという国ができたのはいつのことだかご存じでしょうか。イタリアはギリシアとともにヨーロッパ文明の源流の地ともいわれていますが、その国家としての歴史は意外に新しく、ほぼ現在の形のイタリアが成立したのは日本の明治維新より少し遅く1870年のことなのです。サルデーニャ王エマヌエレ2世は、自国領のピエモンテから徐々に領土を広げ1860年にはイタリアの半分以上を占領し1861年にイタリア王国成立を宣言、さらに1866年にはベネチアを併合、1870年教皇領ローマの陥落をもってほぼイタリアの統一が成し遂げられました。1919年のスロベニア最西部および南チロル地方の一部の併合により現在のイタリアが完成しています。
イタリアがイタリア人国家として統一されたことは、過去には一度もありませんでした。
紀元前4世紀頃までは、ヨーロッパ大陸中央部や地中海沿岸の諸民族が地域別に併存し、民族的に全く一体性がない時代でした。
しかし一地方国家にすぎなかったローマ共和国が紀元前280年頃から急速に力を付け始め、瞬く間に地中海を中心にやアフリカ北部から中近東、イギリスにまでおよぶ大帝国となりました。この時代はイタリア統一というよりはむしろ、全ヨーロッパと中近東にまたがる大帝国の一部であった時期といえます。
395年のローマ帝国分裂後、西ローマ帝国の一部として約80年間(395−476)、東ローマ帝国の一部として約30年間(535−568)を送った時期、異民族に全土を占領され形式的に統一イタリアが成立していた一時期以外は、1870年までイタリアは別々の複数の国として存在していました。
ルーツとなる民族もバラバラで、過去に一度も独立した統一国家を形成したことがないイタリアを一つに結びつけたものは何なのでしょうか。
カトリックの総本山ローマの影響を強く受けたこと、古代のローマ帝国ないしはラテン人の文化を受け継いでいること、この2つこそが統一国家形成のパワーの源であり、イタリアの本質であると思われます。
一方で統一国家を持たなかったというこの歴史は、海に南北に細長く突き出ているという地理的な特徴と相まって、地方ごとの特徴を強く残すイタリアの多様さにつながっていると考えられます。現在、北部諸州による分離独立運動が大きな支持を得ていることがよく理解できることかと思います。
地中海生活では、便宜上イタリアを5つの地域に分けてその特徴を解説していきたいと思います。この区分けは地中海生活独自のものであり、公式のものではありません。
イタリアを構成する20州 ピンク; 北東部
黄; 北西部
だいだい; 中部
紫; 南部
赤; サルデーニャ地図上をクリックするとその地域の説明へジャンプします
(2)イタリアの各地域の特徴
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- 北東部イタリア
Venezia ベネチアを中心とする北東部イタリアにはヴェネト、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア、トレンティーノ=アルト・アディジェの3州が含まれます。総じてオーストリア、旧ユーゴスラビア、ギリシアなどの中欧、東欧、東地中海との結びつきが強い地域です。南チロルのアルプス山中に水源を持つ各河川流域に広がるこの地方の中心地は、いうまでもなくベネチアです。他に主な都市としてはヴェローナ、ヴィツェンツァ、トリエステ、ボルツァーノなどが含まれます。
有名な観光地には、海上都市のヴェネチア、ドロミテやコルチナなどのチロルアルプス、イタリア最大の湖ガルダ湖、美しい芸術都市ヴェローナなどがあります。
5世紀前後の大移動により進入したゲルマン系イタリア人が住民の多くを占めますが、旧オーストリア領のトレンティーノ=アルト・アディジェ州とフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州東部にはそれぞれドイツ人、スロベニア人が住み、自治区を形成しています。
この地域の人々の言語は多様です。南チロル・ボルツァーノ県のボーツェン(ボルツァーノ)、ブリクセン(ブレサノーネ)、トブラッハ(ドビアコ)などの諸地域では今でもドイツ語(南チロル方言)が使われ、ゴリツィア県・トリエステ県の一部ではスロベニア語が話されています。またドロミテ近辺の谷ではラディン語が使われており、標準イタリア語とあわせて4種類の言語が公用語として役所、学校、メディアなどの場で共存しています。さらに方言として200万人がベネチア方言を、60万人がフリウリ語(イタリア語から独立した言語としばしば考えられている)を話しています。
食べ物は平野が広がるため穀類が豊富で米もよく使います。またアドリア海があるため沿岸部では魚介類も豊富です。魚介類のあっさりしたスープやリゾットなどが代表的な料理です。ワインではソアヴェ・クラシコ(白)が日本でも有名です。
この地域には、ローマ帝国滅亡後多数のゲルマン系の諸民族が入り定住していきました。また東部のトリエステ周辺にはスラブ系のスロベニア人が住み着きました。一方ヴェネチア市などのわずかの沿岸部は、現在のトルコ領イスタンブールに首府を置く東ローマ帝国が保有しつづけました。
9世紀、ゲルマン系フランク族の大帝国フランク王国(現フランス)がこの地域のほとんどを占領するに当たり、逃れたラテン系民族が海に浮かぶ中州に建国したのがベネチア共和国の始まりでした。東地中海交易の要衝の地にあるベネチアは、海運国家として急速に発展していきました。東ローマ帝国の領域を徐々に浸食しながらその勢力を東にのばし、クロアチア、ギリシアへ領土を広げ東地中海の覇権を獲得します。また15世紀には内陸部に勢力を広げ最盛期を迎えました。しかしその後、経済的にはアメリカやアジアへ進出したスペイン、ポルトガルの発展に遅れをとり、また膨張するトルコとの300年にも及ぶ戦争で疲弊し、1797年ついにナポレオン指揮下のフランス軍に破れて共和国の歴史は幕を閉じました。
一方ヴェネチアから遠い山間部は中世以降オーストリア領となりましたが、特にフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都トリエステはオーストリアの海港としてベネチア同様に発展しました。
ベネチア滅亡後はオーストリア支配の時代がしばらく続いたあと、1866年にはベネチアを含むヴェネト州を中心とする地域がイタリア王国に併合されてその一部となりました。さらに1919年第一次世界大戦でオーストリアを破ったイタリアは、南チロルのトレンティーノ=アルト・アディジェ州とフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州東部(トリエステなど)および現スロベニア、クロアチア領の一部を獲得し東へ領土を広げました。第二次大戦での敗戦によりスロベニアとクロアチア、およびトリエステ周辺を失いましたが、1954年トリエステのみを回復し現在のイタリアが確定しました。地図に戻る
Monte Cervino (Matterhorn) |
ミラノ、トリノなどの北部の大都市を含むこの地域はイタリア経済の中心地です。アドリア海に注ぐポー川に開けた平野部に位置するロンバルディア、ピエモンテの2州を中心に、スイス・フランス国境の山間部のヴァレ・ダオスタ(アオスタ谷)州、西地中海のリグリア海沿いの険しい傾斜地に位置するリグリア州のあわせて4つの州から成り立っています。各州とも隣接する大国フランスの影響が強い地域です。ただし海と険しい山地とに挟まれて他の地域から遮断されているリグリア州はその中で独立性が強い地域であり、ジェノバを中心に海運で発展してきました。
有名な観光地には、コモ湖やマッジョーレ湖などの湖水地方、モンテ・ビアンコ(モン・ブラン)やモンテ・チェルビーノ(マッター・ホルン)などのヨーロッパアルプス、イタリア第一の都市ミラノ、風光明媚なリビエラ海岸などがあげられます。
アルプスの山々と、それに抱かれたポー川沿いの肥沃な平野では、牧畜、水田、畑作などあらゆる農業がさかんで、米や肉を使った料理に特徴があります。またヴァレ・ダオスタではスイスと同じくチーズ料理、海に面したリグリアでは魚介類などのように、名物料理その地でとれるものが主です。
公には標準イタリア語が使われていますが、日常に使われる言葉は、ロンバルディア方言、ピエモンテ方言、リグリア方言、プロバンス方言などのフランス語に近いものです。アルプス山中のアオスタ谷では今でもフランス語も公式に使用され、また日常言語としてフランコプロバンス語やドイツ語系のヴァリス語なども使われます。
Lago di Maggiore |
ローマ帝国の崩壊とゲルマン人の進入、定着までの歴史はイタリア北東部と同じですが、その後政治的には安定せず、962年神聖ローマ帝国に組み込まれたあとは次第に地元の諸侯が勢力を増し、おのおの独自の公国を設立するようになります。またナポレオン指揮下のフランス軍による一時占拠やオーストリア領、スペイン領となる地域が発生するなど、周辺大国の勢力争いの場となっていきます。
そんな中でピエモンテのトリノに首都を置くサルジニア王国がフランスの力も借りながら一気にイタリア北東部を制圧しイタリア王国の基礎を作り、さらにその勢いで南部をも占領しイタリアができたわけです。またこのときニース周辺とサボイ地方(ジュネーブ南方)をフランスに譲り、失っています。
イタリア統一後約120年あまりが経過した現在、豊かな平野、半島部ではなく大陸部に位置し諸外国と隣接した地理条件、盛んな工業に支えられた経済発展に加え、大陸との結びつきが強かったこの地域では、過去の歴史、民族的・言語的相違などイタリア半島部との違いが大きく、北部再独立の動きがますます強まってきています。
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Vatican |
ポー川もしくはその南のアペニン山脈を境に、イタリアを南北に分ける境界があります。そのすぐ南に当たるこの地域は、ローマ、フィレンツェなどの都市を含み、大陸につながる北部と地中海に続く南部の両者の影響を受けた地域です。地域的な統一性が特に強いわけではなく、北へ行くほどロンバルディアの影響が、南へ行くほど地中海の影響が強くなっていきます。エミリア=ロマーニャ、トスカーナ、マルケ、ウンブリア、ラツィオの5州が含まれます。また2つの国家サンマリノ共和国とバチカン市国がこの地域に含まれます。その他の主な町にはボローニャ、ペルージャ、アンコーナなどがあげられます。
紀元前にはエトルリア、ローマなどの有力国家が栄え、紀元後には教皇領として常にイタリアの政治的、文化的な中心地でありました。現在も首都のローマを含み、またイタリア標準語にはトスカーナ方言が採用されています。
地理的には海岸沿いにわずかの平野があるのみで、地域全体が山岳ないしは丘陵地帯になっています。この地域の中世の小都市は多くが丘の山頂部に建設されており、数多い山岳都市が存在し目を引きます。
北部が大きく発展する近世まではイタリア文化の中心地であったため、都市を中心に見どころは多く、そのほとんどは建築、絵画などの文化、宗教的な遺産です。中世ルネサンスの都フィレンツェ、トスカーナの古都シエナ、ローマ帝国滅亡後の6世紀頃のイタリアで最も栄えたモザイクの街ラヴェンナ、サンマリノ共和国、斜塔で有名な中世の海運国家ピサ、宗教の街アッシジ、世界遺産に指定された中世山岳都市サン・ジミニャーノ、そしてローマ、最もイタリア的な観光都市が目白押しです。
この地方、特にトスカーナは美食で知られ、よいワインがとれ、またパスタ、ソース、チーズなどの基本的なイタリア料理はこの地方で生まれたものがかなりあります。海に囲まれている割には山岳地帯に都市があるため素材は肉が中心です。赤のキャンティ・ワインやタリアテッレ、ラザニアなどのパスタ類、牛肉の素朴な炭火焼きビステッカ・アッラ・フィオレンティーナなどが有名です。
Firenze |
有史以来、イタリア中部には大陸から移動してきたイタリア族が最初に住み着きました。歴史的に明らかになっている最初の国は紀元前8世紀頃に興ったローマ共和国とエトルリアとです。特に現在のトスカーナ州を中心としたエトルリアはその起源は明らかではありませんが、独自の文化を持った国家として栄えました。一方一地方国家であったローマ共和国は紀元前3世紀から急速に拡大して瞬く間に全ヨーロッパを統一しました。
395年のローマ帝国滅亡後はゲルマン諸民族や東ローマ帝国に代わる代わる支配されますが、ゲルマン系のフランク族の国家フランク王国のピピンが756年教皇領としてローマ周辺の占領地を献上しました。フランク王国はまもなく神聖ローマ帝国(ドイツ)とフランス王国(フランス)に分裂し、その後この地域は教皇に権威付けされた神聖ローマ帝国(ドイツ)の支配下に入ります。中世にはいるとまず教皇領(ラツィオ、ウンブリア、マルケ、エミリア=ロマーニャを中心とする地域)が、続いてトスカーナなどの地域が独立をしますが、教皇領以外は小国家が乱立したり一部がエスパニア(スペイン)領になるなどイタリア統一まで政治的には安定しませんでした。
ここでこの地域に含まれる2つの小国家についてその由来を簡単に紹介します。サンマリノ共和国は301年、アドリア海を挟んで対岸にあるローマ帝国領アルベ島(現在のクロアチア領ラブ島)から来た石工マリノにより建設されたと言われる山上にある小国家です。もうひとつのバチカン市国は教皇領に起源を持ちます。1870年イタリア王国に軍事的に敗北した教皇が領土を大幅に縮小され、1929年に小国家としてカトリック総本山周囲の領有を認められたものです。
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Isola di Capri |
地中海に大きく突き出た半島最南部とシチリア島は、常に地中海交通路の中心に位置し、時の地中海の覇者が君臨する地域でした。それだけに多くの民族の文化の交差点でもあり、それらが融合して醸し出す独特の雰囲気を持った地域といえるでしょう。特にシチリア島では北欧人のような金髪碧眼の人からアラブ人のように黒髪褐色の人まで多様な血筋の人が見られ、その過去の歴史を如実に物語っています。
また町の雰囲気も北部から中部にかけてのイタリアの都市とは大いに異なり、教会はビサンチン様式の教会が多く見られ、また地中海共通の白い家並を持つ町がプーリア州を中心に多く見られます。シチリア島ではアラブやノルマンの影響も強く現れ、北アフリカのカルタゴ(現チュニジア)の町として発展した東端の町トラパーニにはアラブ風の町並みが残ります。アブルッツィ、モリーゼ、カンパーニャ、プーリア、バジリカータ、カラブリア、シチリアの7州がここに含まれます。
もう一つの顔としては、ヨーロッパの中心地からの距離が遠く、近代の発展から取り残された後進地域としての顔があります。観光客にとってはその素朴さが旅情をかき立てる大変魅力的な地域ですが、イタリアの国家にとってはこの地域の領有が負担になっており経済的発展は最重要の課題となっています。
海を挟んで多くの国と接しているのもこの地域の特徴で、各国への航路が出ています。トラパーニ(シチリア州)からチュニス(チュニジア)へ7.5時間、ポツァッロ(シチリア州)からバレッタ(マルタ)へ1.5時間、オトラント(プーリア州)からヴロラ(アルバニア)へ3時間、ブリンディジ(プーリア)からコルフ(ギリシア)へ4時間で行くことができます。1997年のアルバニア反政府暴動の際、多くの難民が海を渡ってこの地域に殺到したことは、まだ記憶に新しいことと思います。
主な都市には、ティレニア海側のナポリ、サレルノ、アドリア海側のペスカーラ、フォッジャ、バーリ、ターラント、半島先端のレッジョ、シチリア島のパレルモ、カターニャなどがあげられます。
山と海とがおりなす風光明媚な風景と、ギリシアやアフリカなどの地中海文化の影響を強く受けた遺跡や建築物に恵まれ、数多くの見どころがあげられます。ナポリの町と古代都市ポンペイおよびヴェスヴィオ火山、ソレント半島のソレントやアマルフィにカプリ島、マテーラの洞窟住居、トゥルッリの町アルベロベッロ、シチリアのリゾート都市タオルミーナ、アラブやノルマンの香りを残す州都パレルモなどが特に有名です。
食べ物は海産物を中心とした素朴なおいしさがベースとなっており、またナポリはピッツァ発祥の地としても有名です。ピッツァ・マルゲリータ、スパゲッティ・ボンゴーレ、カポナータなどなどの庶民的な食べ物がおいしく、また魚介類は新鮮で豊富なのですべておすすめといえます。
言葉は標準語としてイタリア語が使われますが、日常生活ではナポリ方言、シリチア方言がそれぞれ使われています。
Palermo (Sicilia) |
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西地中海の中央、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸のちょうど中間に浮かぶサルデーニャ島、ここはイタリアとは全く異質な場所です。ただたまたま歴史のいたずらによりイタリアの領土となっているにすぎないのです。キプロス、クレタ、マルタなど他の地中海の孤島と同じく、サルデーニャ島は歴史の中心となることはなく、その時々の優勢な海洋民族によって占められてきました。
海岸部の町の多くは紀元前のフェニキア人によって建設されたものです。しかし一方山間部の住民はそうした政治とは無関係に農業と牧畜を中心とした穏やかな生活を営んできました。この島は長らく海岸部と山間部とが別々の文化圏に属するという二重の構造を保ってきました。
近年、自然の美しさと相まって島の素朴さが人気を呼びリゾートとして注目されており、また一方工業化も進みつつあります。こうして徐々に開発の波が押し寄せ、昔ながらの風情が失われつつあります。しかし今でも黒一色の古代地中海風の民族衣装を身につける山間部の人々、カタルーニャの伝統を守り続けるカタラン人など古い伝統が息づいています。すぐ北に接するフランス領コルス島とは地理的にも文化的にも元来双子の島といえますが、中世以来別の道をたどることになりました。島全体がサルデーニャ州となっています。
島はほとんどが山地で占められており、羊を中心とした牧畜が盛んです。その周囲の海岸部は白い砂浜とエメラルドの海で囲まれており、特に北部のコスタ・ズメラルダは高級リゾートとして有名です。中心地は州都のある南部のカリアリ、北部のサッサリで、またアラゴン王国(現スペイン)の植民地として栄えたアルゲーロはスペインの面影を今に伝えています。山間部にはサルデーニャ島の独特の文化を今日も残すヌーオロがあります。
地方料理としては羊飼いの伝統を残す野趣あふれる料理が知られており、羊、山羊、猪などの炭火焼きが好まれます。またポルケット(離乳前子豚の串焼き)、ペコリーノ(羊乳のチーズ)などが有名です。一方沿岸部ではスペイン、イタリア支配の影響を受けており、それらが入り交じった海の物を主体とした料理が味わえます。
この島ではイタリア語が公用語として用いられますが、日常的には独自の言葉であるサルデーニャ語が使われます。アルゲーロなどの一部ではスペインのバルセロナと同じカタラン語が話されています。
サルデーニャ島には紀元前20世紀頃の遺跡が見つかっておりかなり古くから独自の文化が存在したことがわかっています。紀元前八世紀頃にカルタゴ(現在のチュニジア)のフェニキア人が海岸部に住み着き、町の建設を始めました。やがてカルタゴの滅亡とともに紀元前3世紀ローマ帝国領となりますが、いずれにせよ海岸部だけの支配にとどまりました。帝国崩壊後、カルタゴに建国したゲルマン系のヴァンダル人の支配下に入りますが、すぐに6世紀には東ローマ帝国領の緩い勢力下に入ります。しかし次第にイタリア人とアラビア人の間で領有を巡る争いが激しくなり、海運都市国家ピサの勢力下に入ります。この中世の期間、サルデーニャは複数の自治国が並立していましたが、14世紀のアラゴン王国(スペイン)による占領以来、再度外国の支配下に置かれます。18世紀からはオーストリア、フランスなど各国の王家に領有されますが、1720年フランスのサヴォワ家の統治下となります。そしてサルデーニャ島と北部イタリアのピエモンテ州を領地としたサルデーニャ王エマヌエレ2世がイタリア全土を征服したことにより、この島は自動的にイタリアの一部となりました。
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(3)歴史の生き証人たち
イタリアの歴史を振り返ってみると、この地を実にいろいろな民族が通り過ぎていったことがわかります。古文書や伝承、および掘り起こされ修復された古代ギリシアやローマの遺跡がそれを今に伝えていますが、リアルタイムに過去の痕跡を明らかに残しているものが一つあります。それが言葉です。
近年イタリアでは、国語(イタリア標準語)教育の進展とメディアの発達とにより、若者が少数言語を使わなくなり、何百年、何千年もの間使われてきた言葉が途絶えそうになっている地域がかなりあります。しかしそれらの地域でかろうじて老人らが使っている言葉には、過去の歴史が今に息づいているといえるでしょう。
トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部では1919年までオーストリアであったため今でもドイツ語が一般的に使われています。
またサボワ候の旧領内ではそれぞれ隣接するフランス領内の各方言と同じ言葉を話しています。ヴァレ・ダオスタ州のフランコ・プロバンス語(フランス語の変種)、ピエモンテ州山間部のプロバンス語(主にフランス南部で使われる言葉)などがそれに当たります。
ナポレオン軍の進入もしくはイタリア王国建国以前は独立していた地域でも、へんぴな場所ではまだ昔の言葉が残っています。サルデーニャ島のサルデーニャ語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州のラディン語、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のフリウリ語(いずれもスイスのロマンシュ語と同じく、スイス南部からイタリア北部で使われる言葉)などがそれに当たります。
またイタリア北部の諸州はローマ帝国崩壊以来、近世まで現在のフランス、ドイツなど北海文化圏の国々の領土となっていたため、これらの地方の方言はイタリア語よりもむしろフランス語に近いものが使われています。
さらに時間をさかのぼると、1714年まで約400年間スペインの港町として栄えたサルデーニャ島のアルゲーロではバルセロナと同じカタラン語を話す人々がまだ少しいます。
また中世にはトルコが東地中海で猛威を振るいました。トルコは1480年にはついにイタリア南部、プーリア州のオトラントを占領し、その攻防は今に語り継がれているほどです。このトルコの進出で祖国を失ったバルカン半島のアルバニア人、クロアチア人の一部はイタリア南部の山奥に住み着きました。モリーゼ州のテルモーリの約40km奥に位置する山村、Montemitro、San Felice del Molise、Acquaviva-Collecroceなどではクロアチア語を、また最南部からシチリア島にかけての各州の一部の村ではアルバニア語を、今でもわずかの人々が話しています。
今から1200年以上前のことです。600年以上も地中海全域を支配したローマ帝国はついに滅亡しました。その後イタリアは乱世を迎えますが、特に北部から中部にかけてはゲルマン系民族の支配が続きました。774年に滅びたランゴバルト王国は200年の間支配を続けました。そのランゴバルト人の生き残りと言われる人々が、トレンティーノ=アルト・アディジェ州とフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の境界近く、州都トレントに南西部の山間部の村、Giazzera、Luserna、Roanaに住んでいます。彼らはシンブリア語というドイツ語の変種である言葉を守り続けています。この言葉を話せるのは世界中でこれらの村の人たちだけです。
紀元前、イタリア南部、特に海岸部にはギリシア人の植民都市が数多く見られ、その繁栄はギリシア本国と競うほどでした。紀元前8世紀頃から次々に建設されたギリシア人の諸都市も、今を遡ること約2300年の、紀元前280年ローマ帝国の軍門に下りました。しかしネアポリス(現ナポリ)の人たちはローマ帝国の治世下でもギリシア語を守っていたと言われています。ローマ帝国の後にはゲルマン人がやってきましたが、535年から1139年までの約600年間再度東ローマ帝国領としてギリシア人の統治下を迎えました。その後はギリシア人はこの地では表舞台に上がることは2度とありませんでした。
プーリア州のターラント県、カラブリア州のレッジョ・ディ・カラブリア県には、この地域に植民都市を建設した先祖の言葉であるギリシア語アッティカ方言を使う人々がいまなお存在しています。