地中海,イタリア



イタリアの多様さはどこからくるのでしょうか



 イタリアは面積的にはそれほど大きな国ではありませんが、きわめて多様なイメージを持っています。フランスといえばパリ、ドイツといえばライン川と中世の城、スイスはアルプス、ギリシアはエーゲ海とそれぞれ顔を持っています。もちろんそれがその国のすべてではありませんが、少なくとも国を代表する一つの強いイメージを持っています。

 しかし反対にイタリアは一つの情景で代表しきれないような多くの顔を持った国であるといえるでしょう。北から数え上げても、モンテ・ビアンコ(モンブラン)やモンテ・チェルビーノ(マッターホルン)などのアルプスの山々、ファッションの街ミラノ、水の都ベネチア、中世ルネッサンスのフィレンツェ、永遠の都ローマ、陽気な港町ナポリ、地中海に浮かぶシチリア島、主なものだけでもこれだけの顔があります。

 このコーナーではこれらを整理して、イタリア的なものとは何なのか、その本質に迫ってみたいと思います。


(1)イタリア成立の経緯
(2)イタリア各地域の特徴
   ・北東部イタリア →ヴェネト地方の個別情報へ
   ・北西部イタリア →リグリア、エミリアロマーニャ地方の個別情報へ
   ・中部イタリア →トスカーナ、ラツィオ地方の個別情報へ
   ・南部イタリア →カンパーニャほか南イタリアの個別情報へ
→シチリア島の個別情報へ
   ・サルデーニャ →サルデーニャ島の個別情報へ
(3)歴史の生き証人たち



(1)イタリア成立の経緯

 イタリアには20の州と2つの国があります。「2つの国」は正確には外国になるのでイタリアではないのですが、サンマリノ共和国とバチカン市国です。
 イタリアという国ができたのはいつのことだかご存じでしょうか。イタリアはギリシアとともにヨーロッパ文明の源流の地ともいわれていますが、その国家としての歴史は意外に新しく、ほぼ現在の形のイタリアが成立したのは日本の明治維新より少し遅く1870年のことなのです。サルデーニャ王エマヌエレ2世は、自国領のピエモンテから徐々に領土を広げ1860年にはイタリアの半分以上を占領し1861年にイタリア王国成立を宣言、さらに1866年にはベネチアを併合、1870年教皇領ローマの陥落をもってほぼ
イタリアの統一が成し遂げられました。1919年のスロベニア最西部および南チロル地方の一部の併合により現在のイタリアが完成しています。

 イタリアがイタリア人国家として統一されたことは、過去には一度もありませんでした。
 紀元前4世紀頃までは、ヨーロッパ大陸中央部や地中海沿岸の諸民族が地域別に併存し、民族的に全く一体性がない時代でした。
 しかし一地方国家にすぎなかったローマ共和国が紀元前280年頃から急速に力を付け始め、瞬く間に地中海を中心にやアフリカ北部から中近東、イギリスにまでおよぶ大帝国となりました。この時代はイタリア統一というよりはむしろ、全ヨーロッパと中近東にまたがる大帝国の一部であった時期といえます。
 395年のローマ帝国分裂後、西ローマ帝国の一部として約80年間(395−476)、東ローマ帝国の一部として約30年間(535−568)を送った時期、異民族に全土を占領され形式的に統一イタリアが成立していた一時期以外は、1870年までイタリアは別々の複数の国として存在していました。

 ルーツとなる民族もバラバラで、過去に一度も独立した統一国家を形成したことがないイタリアを一つに結びつけたものは何なのでしょうか。
 カトリックの総本山ローマの影響を強く受けたこと、古代のローマ帝国ないしはラテン人の文化を受け継いでいること、この2つこそが統一国家形成のパワーの源であり、イタリアの本質であると思われます。

 一方で統一国家を持たなかったというこの歴史は、海に南北に細長く突き出ているという地理的な特徴と相まって、地方ごとの特徴を強く残すイタリアの多様さにつながっていると考えられます。現在、北部諸州による分離独立運動が大きな支持を得ていることがよく理解できることかと思います。


 地中海生活では、便宜上イタリアを5つの地域に分けてその特徴を解説していきたいと思います。この区分けは地中海生活独自のものであり、公式のものではありません。





イタリアを構成する20州
ピンク;  北東部

黄;  北西部

だいだい; 中部

紫;  南部

赤;  サルデーニャ

地図上をクリックするとその地域の説明へジャンプします




(2)イタリアの各地域の特徴



(3)歴史の生き証人たち

 イタリアの歴史を振り返ってみると、この地を実にいろいろな民族が通り過ぎていったことがわかります。古文書や伝承、および掘り起こされ修復された古代ギリシアやローマの遺跡がそれを今に伝えていますが、リアルタイムに過去の痕跡を明らかに残しているものが一つあります。それが言葉です。
 近年イタリアでは、国語(イタリア標準語)教育の進展とメディアの発達とにより、若者が少数言語を使わなくなり、何百年、何千年もの間使われてきた言葉が途絶えそうになっている地域がかなりあります。しかしそれらの地域でかろうじて老人らが使っている言葉には、過去の歴史が今に息づいているといえるでしょう。

 トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部では1919年までオーストリアであったため今でもドイツ語が一般的に使われています。
 またサボワ候の旧領内ではそれぞれ隣接するフランス領内の各方言と同じ言葉を話しています。ヴァレ・ダオスタ州のフランコ・プロバンス語(フランス語の変種)、ピエモンテ州山間部のプロバンス語(主にフランス南部で使われる言葉)などがそれに当たります。
 ナポレオン軍の進入もしくはイタリア王国建国以前は独立していた地域でも、へんぴな場所ではまだ昔の言葉が残っています。サルデーニャ島のサルデーニャ語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州のラディン語、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のフリウリ語(いずれもスイスのロマンシュ語と同じく、スイス南部からイタリア北部で使われる言葉)などがそれに当たります。
 またイタリア北部の諸州はローマ帝国崩壊以来、近世まで現在のフランス、ドイツなど北海文化圏の国々の領土となっていたため、これらの地方の方言はイタリア語よりもむしろフランス語に近いものが使われています。

 さらに時間をさかのぼると、1714年まで約400年間スペインの港町として栄えたサルデーニャ島のアルゲーロではバルセロナと同じカタラン語を話す人々がまだ少しいます。
 また中世にはトルコが東地中海で猛威を振るいました。トルコは1480年にはついにイタリア南部、プーリア州のオトラントを占領し、その攻防は今に語り継がれているほどです。このトルコの進出で祖国を失ったバルカン半島のアルバニア人、クロアチア人の一部はイタリア南部の山奥に住み着きました。モリーゼ州のテルモーリの約40km奥に位置する山村、Montemitro、San Felice del Molise、Acquaviva-Collecroceなどではクロアチア語を、また最南部からシチリア島にかけての各州の一部の村ではアルバニア語を、今でもわずかの人々が話しています。

 今から1200年以上前のことです。600年以上も地中海全域を支配したローマ帝国はついに滅亡しました。その後イタリアは乱世を迎えますが、特に北部から中部にかけてはゲルマン系民族の支配が続きました。774年に滅びたランゴバルト王国は200年の間支配を続けました。そのランゴバルト人の生き残りと言われる人々が、トレンティーノ=アルト・アディジェ州とフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の境界近く、州都トレントに南西部の山間部の村、Giazzera、Luserna、Roanaに住んでいます。彼らはシンブリア語というドイツ語の変種である言葉を守り続けています。この言葉を話せるのは世界中でこれらの村の人たちだけです。

 紀元前、イタリア南部、特に海岸部にはギリシア人の植民都市が数多く見られ、その繁栄はギリシア本国と競うほどでした。紀元前8世紀頃から次々に建設されたギリシア人の諸都市も、今を遡ること約2300年の、紀元前280年ローマ帝国の軍門に下りました。しかしネアポリス(現ナポリ)の人たちはローマ帝国の治世下でもギリシア語を守っていたと言われています。ローマ帝国の後にはゲルマン人がやってきましたが、535年から1139年までの約600年間再度東ローマ帝国領としてギリシア人の統治下を迎えました。その後はギリシア人はこの地では表舞台に上がることは2度とありませんでした。
 プーリア州のターラント県、カラブリア州のレッジョ・ディ・カラブリア県には、この地域に植民都市を建設した先祖の言葉であるギリシア語アッティカ方言を使う人々がいまなお存在しています。