「地中海生活」 1999年 秋号 ( 8月12日発行 通算第15号 ) | MAP & TRAVEL |
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マルサシュロックについて |
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マルタ共和国は地中海の中央部に浮かぶ2つの小さな島、マルタ島、ゴゾ島とからなる小さな共和国です。ヨーロッパとアフリカのほぼ中間点に位置し、またシチリア島に近い位置にあります。
マルタ島は、またリゾート地としてヨーロッパでは大変有名な島です。長径でも約30kmしかない小さなマルタ島は、首都のヴァレッタ、第一級のビーチリゾート、歴史あるかつての首都イムディーナ、そして漁港のマルサシュロックとたいへんバラエティに富んだ魅力的な島でもあります。
一方ゴゾ島はやや小さく、どちらかといえばのんびりした島です。しかし紀元前36世紀ごろの神殿をはじめ、古代の遺跡には事欠かない歴史に覆われた島です。
いずれの島も地形は平坦で高い山はなく、楕円形の島はゆるい起伏で覆われています。逃げ場のない島の地形、また地中海の真中にある地理的要因もあり、マルタはたびたび海賊の襲撃を受け、古い町は要塞化されています。
マルタには古代からさまざまな文明が栄えては滅んできましたが、現在のマルタにつながる文明は紀元前8世紀のフェニキア人(アラブ系の海洋民族)に始まりまったと考えられています。そのためヨーロッパ諸国とは異なり、マルタの建築、言語、習慣など、生活に根ざした奥深い部分には、むしろアラブ的な風合いを感じることができます。
また紀元後は一時期を除いてほぼ一貫してヨーロッパ文化圏に属したため、適度にエキゾチックな独特の雰囲気を持っています。
住民はホスピタリティ(もてなしの心)が強く、旅行者には居心地がよいとよく言われます。マルタは小国ですので、大国や歴史のある国のように国民が威張ったり強い自尊心を持っていたりということが少なく、また全島が観光化されており国民が外人慣れしていることもあるのでしょう。
また約160年にわたる英国による占領の歴史は、ある意味では日本人に親近感を与えることにもなっています。ヨーロッパ諸国の中で、国民の多くが英語を理解し、車が右側通行をする国は、マルタぐらいなのですから。
ここでご紹介するマルサシュロックはマルタ島随一の漁港であり、リゾート色の沿岸部の中でただひとつローカル色が感じられる貴重な場所ということができます。
マルタ島には紀元前50世紀ごろから人が住み始めたといわれていますが、特に紀元前40世紀から紀元前20世紀にかけては、特筆すべき巨石文化が発達しました。何千年も前にどのようにして巨石神殿を建造できたのか、この小さな島にどのようにそんな高度な技術を持つことができたのか、現在でも謎とされています。この巨石文化遺跡の2箇所はの世界遺産として登録されています。
マルタが歴史にはじめて登場するのは、紀元前8世紀にファニキア人がやってきたことに始まります。その後、ギリシア、ローマなど時代の覇者が次々とここを訪れました。また1世紀には難破した聖パウロをマルタ島民が救出し、これを機にマルタはキリスト教を受け入れました。
その後もビサンツ帝国、アグラブ朝チュニジア、ノルマン領シチリア、ドイツ(神聖ローマ帝国)など、交互に近隣諸国の支配を受ける歴史が続きます。しかし地中海の小さな島のひとつとしてしか認識されていなかったものと思われます。
中世地中海における大きな動きとしては、イスラムの発展と、それに対抗して起こされたカトリック系キリスト教徒による十字軍の動きでした。1113年、十字軍占領下のエルサレムに聖ヨハネ騎士団が創設されました。これはヨーロッパ各地のカトリック系の裕福な貴族によって構成された多国籍軍でした。しかし一時的に占領した聖地エルサレム周辺も、再びイスラム勢力により奪取され、1308年にはロドス島(ギリシア)に退きます。ここで東地中海のキリスト教の砦として活躍しますが、トルコ帝国は1453年には東地中海の雄ビサンツ帝国を滅ぼし、1522年には半年にわたる激戦の末ロドス島を陥落させました。
その後聖ヨハネ騎士団は1530年、南イタリア一体を領有する神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝から、当時わずかな島民が住むだけの小さなマルタ島を与えられました。騎士団はここに数十年かけて新たな砦の建設を始めました。
1565年、地中海の覇権をねらうトルコは周到に準備を進め、わずか600人の聖ヨハネ騎士団を滅ぼすべく4万人の大群を海路で派遣しました。一方マルタ側は島民や応援等を加えても9000名の兵力でした。これがマルタ史に名をとどめるグレート・シーズ(大包囲戦)でした。5月18日、兵力に勝るトルコ軍は容易に上陸し、陸海の両側から騎士団の砦を責め立てます。トルコは3つの砦のうちのひとつであるヴァレッタの聖エルモ砦に目標を定めます。騎士団の激しい抵抗をうけながら8000人の死者を出して1ヶ月後にようやく砦を落とします。続いて聖ミカエル砦を攻めますが、騎士団の必死の守りに苦しみます。ここでついにトルコ軍も命運を賭けて他の砦やスリーシティーズに同時攻撃を仕掛けます。さらにマルタの古都である要塞首都イムディーナを攻めますが、いずれの守りも堅く大きな戦果を上げることができません。しかしマルタ側の犠牲も大きく、すでに9000人の兵は600人にまで減っていました。当時圧倒的な戦力を持つトルコ軍の来襲に地中海のキリスト教各国は戦々恐々でしたが、思いがけず奮戦する騎士団の活躍に触発され、シチリア総督は1万人の部隊をマルタに差し向けます。9月8日、シチリア軍が到着すると、4万人のうちすでに3万人を失っていたトルコ軍は、撤退を余儀なくされました。この勝利はヨーロッパ各国から熱狂的に賞賛され、騎士団は大きな援助を得て立派な首都を再建することができました。それが「紳士のための紳士によって作られた都市」と称される、首都ヴァレッタです。
その後大いに栄えた騎士団領でしたが、1798年ナポレオン率いるフランス軍に大きな抵抗もなく破れました。平和に酔いしれ、享楽的になった騎士団には、もはや戦意はありませんでした。名高い騎士団国のあっけない終焉には、ナポレオンも拍子抜けしたと言われています。
さらに数年間の攻防の末、英国が支配権を確立し、1814年から正式に英国領となり、それは1964年のマルタ独立まで続きました。
一方領土を失った聖ヨハネ騎士団国は、その後ローマでの借り住まいを続けながら、現在でも独自の政府を要する主権国家(国連オブザーバー)として存続しています。
夏は地中海性の気候で毎日晴れた暑い日が続きます。また春・秋も比較的天候は安定しており、気温も快適な過ごしやすい季節です。冬の間は、極端には冷え込みませんが、雨が多い季節です。メインシーズンの夏は、ヨーロッパ各地からの観光客でにぎわい、ホテルが込み合うので予約をしておく方が無難です。
マルタ島は端から端まででも30キロ程度のそれほど大きくないですが、首都のヴァレッタや古都イムディーナ等の中世に栄えた都市もあり、見どころには欠かしません。マルタ島だけならできれば最低3日、ゴゾ島を合わせると最低でも1週間の滞在は必要です。
しかしそのような観光にとらわれず、地中海の真ん中に位置するマルタの自然の中、ビーチなどで数日をのんびり過ごすのもまた良いでしょう。
国全体がリゾートでもあるため、ホテルは豊富です。特にマルタ島北部のビーチ沿い(マルサスカラ〜メッリーハ)を中心にリゾートホテルは数が多く、高級ホテルから庶民的なホテルまでさまざまです。ゴゾ島にも多くのホテルがあります。
これらのホテルは夏期には皆フル稼働となるため、現地で当日ホテルを確保するのは困難であり、早めに予約することが必要です。
マルタは観光に力を入れており、ホテルも登録制になっているため、政府関係組織や現地の旅行代理店などからほとんどのホテルが記載されたリストが入手できます。
ここでご紹介したマルサシュロックは漁港であるため宿泊できる場所がほとんどありません。町の中に1軒だけ小さなホテルがあります。他には個人の別荘やアパートを観光客用に一時的に貸している所を探す必要があります。地中海生活で宿泊した部屋も、賃貸用の住宅と思われるつくりであり、一時的に旅行客に貸していたものと思われます。現地の旅行代理店に早めに相談すれば、このような個人所有の部屋を探してもらうことは可能でしょう。
日常的にはアラビア語の一方言であるマルタ語が使われます。ただしかつて英国領であったこともあり国民の多くは英語を話すことができるので、英語だけで旅行することは十分可能です。
マルタ島には、首都でありそれ自体が世界遺産である中世都市ヴァレッタ、マルタの古都イムディーナ、要塞港湾都市ビルグ、リスラ、バームラ(総称してスリー・シティーズ)、華やかなリゾート都市スリーマ、紀元前30世紀の地下神殿ハイポジウムをはじめ、書ききれないほどの見所があります。
ゴゾ島にも紀元前36世紀ごろの巨石神殿、ギリシア神話にも登場するカプリソの洞窟などいくつもの見所があります。
また両島にはすばらしいビーチがいくつもあります。