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中世以来の濃密な歴史を負ったクレタ島最大の都市
Iráklio
Ηράκλειο
イラクリオ
(クレタ島 −ギリシア)♦

リシアでも五本の指に入る大都市がイラクリオで、クレタ島の中心地だ。
 古ギリシア語と現代ギリシア語の違い、ギリシア文字からローマ文字への転写方法の違いなどから、英語では数種類の表記があり、日本語でもイラクリオン、ヘラクリオンなど様々な呼称がある。
 イラクリオは、すぐ近くの有名なクノッソス遺跡の探訪のベースとして、多くの観光客が訪れる。
 ギリシアの都市では珍しく、この都市の起源は、9世紀のアラブ人アブ・ハフス(Abu Hafs)領時代の首都ラブズ・アル・カンダク(Rabdh-al-Khandak)にある。
 しかしその面影は消えており、現在見られる、星型の堀を巡らせた堅牢な都市は、13-17世紀のヴェネチア領時代のものだ。

 島の支配権は17世紀にトルコに移ったが、そのときの戦いは「カンディアの戦い」として戦史に名を残すほどの壮絶だったという。
 莫大な貿易収入がかかった東地中海の制海権は、クレタ島が握っている。その首都の攻防戦は、当時の世界を代表する二つの大国、ヴェネチアとトルコが総力を挙げた戦いとなった。
 兵力に物を言わせトルコがクレタの各都市を落としたが、首都の守りは堅く、ヴェネチアは精鋭のモロシーニ率いる部隊を投入、フランスの義勇軍、さらにルイ14世の援軍が加わった。
 戦闘は延べ158回を重ね、開戦から23年が経過した1669年、世界最大級の大砲を装備したトルコ軍8万の猛攻に、ヴェネチア軍はついに数千名を残すのみとなった。城の明け渡しのとき、あまりにも厳しい戦いの終結に、最後には敵味方とも、互いの健闘を称えあったとも言われている。
 クレタ島がギリシアに戻った1913年、イラクリオに改名された。
 この町の見所となる建造物は、旧港に残るヴェネチアの砦と造船所跡の一帯に尽きるだろう。雑然とした大都市の市街を抜けると、一面の青い海がここがクレタ島であることを思い出させてくれる。
 魚のおいしいタベルナが集まっているので、のぞいてみると良い。
 城壁内の旧市街には、他に、13世紀のサン・マルコ教会、ロッジア、モロシーニの噴水など、幾つかのヴェネチア領時代の小ぶりなモニュメントが残されている。

紀元前2000年期のクレタ島各地の美術品。粘土板には未解明の象形文字(文字の拡大写真はページ最下部)

 しかし、イラクリオを訪れる観光客の最大のお目当ては、ここからほど近いクノッソス神殿とならんで名高い、イラクリオ考古学博物館であることは間違いない。
 ミノア文明のすばらしいコレクションの数々は、アテネの国立考古学博物館と肩を並べるほどで、世界の至宝といっても過言ではないだろう。
 紀元前50世紀から紀元2世紀頃にかけての貴重な宝物が、20の展示室に展示されている。中でも紀元前20〜5世紀頃の、ギリシアを代表する遺産がこれでもかというまでに並んでいるのは圧巻だ。
 歴史好きは数日間かけて見ると言うが、駆け足なら1時間でも雰囲気を味わえるので、ぜひ覗いておきたい。