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スロベニア随一の小ヴェネチア
Piran
ピラン
(スロヴェニア)♦♦
Centro
Storico

ストラ半島の海岸沿いに点在する、ベネチア共和国領時代の港町。その中でもピランは最も忠実にヴェネチア時代を伝える街だ。小さな岬状の狭い土地の上に開かれた町は、運河の町ヴェネチアと立地が酷似している。狭い路地を覆い被さるように立ち並ぶ建物、その中にぽっかり現れる小広場、そして東方風の建築デザイン。


 町の名はギリシア語のピル(灯台)に由来するといわれている。紀元前5世紀ににギリシア人がアドリア海沿岸に次々と都市を建設していった時代に、おそらくこの地に灯台が建てられていたのだろう。しかし町が歴史に登場するのはようやく7世紀に入ってからのことである。初期の町は、市街の中央部にあり今でも市民の憩いの場となっている5月1日広場を中心に城壁に囲まれていた。今でもところどころにその残骸が残っているのを見ることができる。ヴェネチアが本格的に統治を始めた14世紀以降に町は周囲に広がり、東方航路の拠点としてようやく繁栄の時期を迎えた。海洋国家ヴェネチアの滅亡ともに、海にせり出した町ピランは意義を失い衰退した。第二次大戦でイタリアが敗れたことにより、この町はユーゴスラヴィア連邦のスロヴェニア領となった。しかしかつての首都ヴェネチアと同じヴェネチア湾内のこの町は、今でもイタリアとのつながりが強い。住民はイタリア語を理解し、親族がイタリア領内に住む者も少なくない。今では外国となったヴェネチア、トリエステとの間にはバスや船が運航されている。一時ユーゴスラヴィアが社会主義化したため交流が少なくなっていたが、今またスロヴェニアはEU時期加盟国の有力候補として、再び西欧の一部となりつつある。ピランは現在人口5000人の小さな町ではあるが、スロヴェニアの海岸線で最も美しい町として多くの観光客を迎えている。

ルトロージュから海岸沿いに車を走らせていくと、左手にピランの小さな全容が見えてくる。ここにゲートがあり、この先の一般車の進入は規制されている。やがて漁港が見えてきて、港の一番奥の部分に面して町の中心タルティーニ広場(Tartinijev Trg)が現れる。この町出身の18世紀の有名なバイオリニスト、ジュセッペ・タルティーニにその名の起源をもつ円形の広場で、真っ白な大理石が敷き詰められており、その周りを取り囲むヴェネチア時代のパラッツォの奥の高台には、聖ユリイ(Sv.Jurij)教会と鐘楼が見える。旧ヴェネチア領内の教会の鐘楼はしばしば首都ヴェネチアのサンマルコ広場の鐘楼を模して作られているがここも例外ではない。鐘楼の上まで上がってみる。真っ青なアドリア海と町のオレンジの屋根、それにタルティーニ広場の白い大理石とのコントラストが美しい。内陸国スロヴェニアの海岸線は大変短く、港越しに見える陸地はもう隣国のクロアチアだ。


ルティーニ広場に戻り、港から先の海岸沿いにはレストランが続く。漁港で水揚げされる新鮮な魚を目当てに観光客が訪れている。小さな町なのでゆっくり5分も歩くと、もうマドナ岬(Rt Madona)の灯台だ。ここはヴェネチア時代にはプンタ・マドンナと呼ばれていたところで、中世の要塞を兼ねた灯台と聖クレメント教会(Sv. Klement)とがぽつんと立っている。夕日を眺めるには最高のローションで、日が沈む頃には市民も観光客もこの散歩道を続々と岬へと向かっていく。
 帰りは北側の海岸を戻っていくとやがて崖になり道は途絶える。市街地に入り4〜5階建ての高い建物の間の細い路地を進んでいく。小さな町ではあるが方向を失ってしまいそうだ。建物の間にぽっかり空いた空間がかつての町の中心地5月1日広場だ。周りを旧市庁舎をはじめとする立派なヴィラを取り囲まれたこの広場で、夏の夜にはコンサートなどの催し物が開かれる。この周辺には市民のための食堂や商店などが集まっている。道はひょっこりとタルティーニ広場に戻ってくる。


市街の背後には新市街が広がっており、山に向かって坂をあがっていくと突然、かなり保存状態のよい城壁の一部に出くわす。上に登ってみると聖ユリイ教会から灯台までの町の全景、さらにその背後にはかつての首都ヴェネチアの山影が望まれる。ピランを訪れたらぜひこの景色を眺めておきたい。