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オリエントが始まる境界線の町
Ulqin/Ulcinj
Улцињ
ウルチン/ウルツィーニ
(モンテネグロ)♦
Centro
Storico

モンテネグロで唯一のハマムを残すパシャ・モスク

然の要塞のような岩山がモンテネグロ南部のどこまでも続くビーチの中にぽつんと取り残さたように存在している。それがウルチン(ウルツィーニ)の旧市街だ。中世の約3世紀間、この先国境をなすボヤナ(Bojana)川の湿地帯の向こうにあるアルバニア(当時はトルコ領)の一部であったこの町は人口の85%がアルバニア人だ。地図には標準語のセルビア語でウルツィーニ(Ulcinj)と表記されているが、町の入り口にある町名表示はアルバニア語のウルチン(Ulqin)だけであった。恐らく「Ulcinj」の方を誰かが外してしまったのだろう。


バザールが開かれるオリエンタルな街の雰囲気


 国道を離れ、町中へと歩を進める。町の中心である新市街では、イスラムの休日金曜日には市が立つ。広場では多くの屋台が店を開き、パザールの雑踏の中にケバブを焼く煙のにおいが充満し、オリエントに来たことを実感する。トルコ風のモスクのミナレットがいくつも見られ、時間になるとコーランが響いてくる。
 ウルチンは過去の複雑な歴史を引きずったままて今に至る人種のるつぼでもある。市の日には売り買い

町は歴史と民族のるつぼ。アラビア文字(トルコ語)が刻まれた壁、通り名の表示はセルビア語(上)とアルバニア語(下)


のためアルバニア系やセルビア系の諸民族が集まるが、その刺繍や生地の織り模様の違いでどこから来たかが分かる。さらにそれに混じって時おり黒人の姿が見られる。中世のトルコ領時代、奴隷貿易の拠点であったため、その子孫たちは町の住民として定着したものだ。シャラベリー(Šaravelji)というアフリカ由来の情熱的なダンスがこの町に根付いている。また同じ

旧市街への表玄関、北門

くトルコ帝国が海軍要員として雇ったアラブ人海賊の拠点でもあったため、その血もまた色濃く継がれている。



かつて教会でありモスクであった博物館

市街への登り口は、新市街の一番奥、タクシープールの近くにある。この先をまっすぐ進めば小さなビーチに出る。夏ともなればパラソルが所狭しと立ち並び、足の踏み場もない大混雑となる。ウルチンは山岳地帯の多いモンテネグロ人にとっての一番のビーチリゾートなのだ。モンテネグロで現存するものとしては唯一完全なハマム残されているパシャ・モスク(Pasina dzamija)脇の坂を上がり、何層ものぶ厚い城壁をカーブしながら抜ける厳重な北門のゲートをくぐると旧市街だ。

トルコ時代に作られた今でも現役の水汲み場

 現存する城砦都市の基礎を築いたのはヴェネチア人だ。この岩山の歴史は、紀元前2世紀にローマ人が現地のイリュリア人から町を奪いオルシニウム(Olcinium)として管理したときに始まる。1405年、ヴェネチア共和国がこの町を手に入れるとアドリア海各地に点在するヴェネチア領の町と同形式の城塞都市を作り上げた。海から直接聳え立つ、高さ数十メートルの城壁は壮観だ。かつて城壁や砦であった部分は寂れて廃墟となっており、今でもイタリア語のままドルチーニョ・ヴェッキオ(Dolcigno Vecchio、古いウルチン)と呼ばれているが、海の展望が素晴らしい。ここでかつてはトルコ海軍や海賊の接近を見張っていたのであろう。

ヴェネチア遺跡のドルチーニョ・ヴェッキオ


  旧市街中央部には博物館があり紀元前からのウルチンの歴史に触れることができるが、それ自体がかつて教会であったりモスクであったりした建物を使用している。その脇には入口にアラビア語が刻まれた旧奴隷市場が見られ、新月のマークをあしらった小広場の水汲み場は250年前のまま冷たい水を噴出している。
 車の入れない入り組んだ階段や小道が続く旧市街は、他に数件のホテル、レストランがある以外これといったものはないが、焼けつくような夏の強い日差しに照らされて全く陰鬱な感じはしない。ただ空しいばかりの明るさの中、時おり見られる洗濯物などの生活の気配に、なぜかほっとさせられる。