地中海,ユーゴスラビア,モンテネグロ,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア
  「地中海生活」 1996年 増刊号 ( 11月12日発行 増刊第1号 ) 旧ユーゴスラビアの歴史−5



1991年〜1995年のユーゴスラビア内戦の経緯


 1990年の選挙で大勝し政権についたクロアチア大統領トゥディマンは直ちにクロアチア軍を創設し拡充を急いだ。同様の動きはスロベニアでも見られた。国民皆兵政策を推進していたユーゴスラビアでは市民は軍人として訓練され、武器も行き渡っているので軍を創設することは容易であった。独立宣言をした両国の軍と連邦政府との軋轢が高まったが、いったん1991年1月には和解し武装解除に応じた。しかし徐々に完全独立を目指しつつあったクロアチアは軍の温存をはかった。クロアチアが独立志向を強めるなかで、クロアチア内で人口の1割強を占めるセルビア人は反発を強め自治区を宣言した。1991年3月のクロアチア軍とセルビア人住民の衝突の際には、連邦軍が介入している。

 1991年6月のスロベニア独立宣言が出ると直ちに連邦軍が出動した。連邦軍はスロベニア軍自体が小規模であったこと、また国際的批判への配慮などから大規模な軍事行動を起こすことはなく、小競り合いが散発した。すぐに紛争拡大を望まないECの調停が入り、両国の独立宣言は3ヶ月間凍結された。スロベニアでは連邦の権威は認められたものの、事実上の独立状態が達成された。

 スロベニアと時を同じくしたクロアチアの独立宣言以後、クロアチア国内でも連邦軍は次第にセルビア人兵士とクロアチア人兵士に分離し始め、連邦軍(セルビア人)と連邦軍離脱者を加えたクロアチア軍との間で徐々に戦闘が激化し、翌年にかけてダルマチアのザーダル、シベニック、スプリット、ドブロブニクなどの諸都市およびスラボニア地方を中心に戦火に巻き込まれていく。

 またクロアチアのセルビア人地区での衝突はますます拡大し、1991年9月には連邦軍とクロアチア軍による激しい内戦が勃発した。この戦闘中マスコミは第二次大戦中のウスタシャやチェトニクの蛮行を蒸し返し、セルビア、クロアチア間に憎しみをかき立てあった。

  1991年10月凍結期間が終わり、スロベニアとクロアチアは独立を宣言する。クロアチア内戦は連邦軍の勝利で1991年11月に終結する。しかしユーゴスラビア解体による紛争拡大を望まない国際社会の反対にもかかわらず、ドイツは歴史的に友好関係にあったスロベニアとクロアチアを12月には承認し、両国の独立は確定した。またマケドニアでも1991年11月に独立宣言が出された。
 クロアチアの独立に対抗し12月にはクロアチア内のセルビア人住民がクライナ・セルビア人共和国の独立を宣言した。
 クロアチア、スロベニアの独立承認により紛争は国家間問題となったこともあり、1992年2月には国連が調停に乗りだし、連邦軍が撤退し国連保護軍がクライナ・セルビア人共和国に出動した。これ以後戦闘は散発的に継続したが、しばらくの間小康状態を保った。

  ボスニア・ヘルツェゴビナでは約1/3を占めるセルビア人は連邦に残留することを望んだが、ムスリム人、クロアチア人は独立を志向し、溝が深まっていた。1992年3月、セルビア人がボイコットする中で国民投票により独立が宣言され、直ちにECおよび米国の承認を受けた。スロベニアやクロアチアの独立には難色を示した国際社会がセルビア人の反対意見には耳を貸さずボスニアの独立を承認したことに衝撃を受けたボスニアのセルビア人は蜂起し、ここに内戦が勃発した。
 第一次和平案が提出されるが、ボスニアの分割を望まないムスリム人により拒否される。1992年5月いまや外国軍となった連邦軍は国際社会の圧力によりセルビアに撤兵する。しかし兵士の多くは兵器を持参して各民族の軍に加わり、戦闘に荷担した。ムスリム人はイスラム諸国や米国、セルビア人はセルビアやロシア、クロアチア人はクロアチアの支援を受けながら3民族は全土で激しく領土を奪い合った。第一次、第二次世界大戦を通じてセルビアに恨みを持つドイツ、イタリア、オーストリアなどを中心に錯綜した不正確な情報に基づく国際社会のセルビア批判が強まり、セルビア人はますます反発を強めて戦闘は激化する。
 1993年1月のジュネーブ会議での第二次和平案であるボスニア分割案は3勢力ともに不満を示し、まとまらない。とくに国土の70%を制圧しているセルビア人が納得しなかった。クロアチア人がおおむね民族分布に合致した領土をおさえた一方、支配地を拡大していたセルビア人と領土を縮小させられているムスリム人の間を中心に戦闘は継続した。国連制裁に苦しみ紛争の拡大を懸念するセルビアは1993年5月、もはやボスニアのセルビア人を支援しないことを明言したが、紛争沈静化には役立たず、しかも依然としてセルビアは紛争の黒幕と誤解され国際社会から避難を受け続けた。
 1993年6月の第三次和平案は、劣性気味で今後の盛り返しをねらうムスリム人が拒否したためやはり日の目を見なかった。1993年9月にはセルビア人、ムスリム人の中で反乱が生じて事態はさらに複雑化した。1994年2月、明石代表の国連保護軍が成果を出せないまま終わり、何とか事態を収拾させたい欧州はNATO軍の投入に踏み切りセルビア人への空爆予告により、サラエボから重火器を後退させた。同4月にはついにゴラジュデでNATO軍とセルビア人が衝突したがロシアの仲介でセルビア人は退却した。
 1994年3月、米国主導の第四次和平案にのっとり、ムスリム人とクロアチア人は提携して連合国家であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を形成し、さらにクロアチアとの国家連合を形成した。さらにセルビア人に同案の受諾を迫ったが、1994年12月ようやくセルビア人は49%と定められた支配地域の具体的な割り振りを将来見直すとの条件付きで同案に受諾し1995年1月停戦が成立した。しかし前線での戦闘はとまらず、空軍を中心に参戦したNATO軍とセルビア人勢力との間で本格的な戦闘に拡大していった。セルビア人勢力は徐々に支配地を狭め、第四次和平案と実体が近づきつつある中、1995年12月和平案が調印され、内戦は一応の終結をみた。
 ムスリム人、クロアチア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(51%を領有)とそのクロアチア共和国との連合形成、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(49%を領有)とそのユーゴスラビア(セルビア、モンテネグロが参加)との連合形成が認められた。NATO軍が1年の任期で駐留することで当面の安定が図られた。





 一方でクロアチア国内のセルビア人勢力と政府との対立は両者間の交渉や国連、ECなどの仲介にも関わらずいっこうに改善せず、ついに1995年5月クロアチア軍は西スラボニアに突入した。ボスニアでNATO軍と戦闘を継続するセルビアへの反発から諸外国が黙認する中、続いてクロアチア軍は1995年8月にはクライナを制圧、さらに圧力を強め1995年11月にはセルビア人は最後に残った東スラボニアを自主的に放棄した。この戦闘で多数のセルビア人が郷土を失いボスニアやセルビアへ流出した。

 1996年にはいると復興への動きに弾みがついてきた。ユーゴスラビア連邦(セルビアとモンテネグロ)とクロアチアの国交は回復し、かつての激戦地サラエボへの鉄路、空路が復旧した。1996年9月、ボスニア・ヘルツェゴビナ統一選挙が実施され、各民族の代表が圧倒的な支持で選出された。ムスリム人のイゼトベーゴビッチ前大統領がボスニア・ヘルツェゴビナ幹部会議長に選出された。






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