地中海,ユーゴスラビア,モンテネグロ,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア
  「地中海生活」 1996年 増刊号 ( 11月12日発行 増刊第1号 ) 旧ユーゴスラビアの歴史−4



アドリア海沿岸バルカン半島(旧ユーゴスラビア)の歴史−4




西暦1800年前後

ハンガリーの南下、ベネチアの滅亡とフランスの進出


 オーストリア帝国の保護国ハンガリーは1779年クロアチア自治国の宗主権を再度手に入れ、同時に港湾都市フィウメを併合する。クロアチアへの締め付けを強化する。

 フランス王ナポレオン1世は1797年ベネチア共和国を滅ぼし、旧ベネチア領のイストラ、ダルマチアにはにオーストリアが一時進出する。

 フランスはさらに1805年、オーストリアをアウステルリッツの戦いで破り、また同年自治国ラグーザを滅ぼし併せてフランス支配下のイタリア王国に割譲する。1806年モンテネグロがロシア支援のもとコトルに進出するが1807年フランス軍が奪還する。





西暦1809年〜1813年

フランス統治下でのイリリア諸州の成立とスラブ人の連帯感の高揚



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 フランスはスロベニアからクロアチア、ダルマチアにわたる占領地域をイリリア諸州という一つの行政地域にしたため、スラブ人諸民族の間に連帯感が発生する。後の統一国家(ユーゴスラビア)形成の布石となる。

 ロシア、ドイツで大敗したフランスは、アドリア海に進出した英軍の圧力下、わずか4年間でイリリアから撤退する。

 トルコ支配下のセルビアでも蜂起が起こり、スラブ人自治国であるイリリア諸州成立にも刺激され持ちこたえるが、9年間で鎮圧される。





西暦1813年

オーストリア−ハンガリーによる支配の強化


 ウィーン会議によりフランス占領地は元通りオーストリア領に戻される。

 ダルマチアを含むトルコ国境はオーストリア軍の管理下におかれる。

 オーストリア帝国内のハンガリーがクロアチア自治国を管理下に置く、3重の権力構造となる。クロアチアは対オーストリアではハンガリーと共闘しながら、かつ支配者であるハンガリーと激しく争った。さらにクロアチア国内の多数のセルビア人定住難民の存在、セルビア人やスロベニア人との汎スラブ的共闘、旧支配者であるイタリア人との協力模索など、いくつもの要素が煩雑に絡み合い、様々な動きが同時多発的に発生する。
 1840年頃からハンガリーによるクロアチアへの圧政が厳しくなり、それに反発し1848年イェラチッチ男爵率いるクロアチア軍は、国内のセルビア人や、ハンガリーに手を焼くオーストリア皇帝、それにロシアの援助を受けてハンガリーを破る。しかし得たものはオーストリアからの自治と、フィウメの回復のみであった。

 トルコ領内のセルビアでは再度蜂起が発生し、ついに1817年自治公国を得る。以後黒海でトルコと激しく対立していたロシアの援助もあり、蜂起を重ねながら徐々に領土を広げていく。




西暦1882年

スラブ人諸民族の自立に向けた戦い



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 1868年、クロアチアはオーストリア−ハンガリー2重君主制への移行に伴い、再度ハンガリー配下の自治国に戻され、フィウメを失うと同時にハンガリーの圧政が復活する。
 1881年にはトルコの衰退に伴い、オーストリア軍直轄地がクロアチアに返還される。ここの住民の多くはセルビア人であり、オーストリア−ハンガリー−クロアチア−セルビア人地域、という4重の支配構造が発生する。この地域が1991年のクロアチア内戦の激戦地になったことは記憶に新しい。

 ボスニアのネヴェシニェで1875年に起きた蜂起をきっかけに、トルコ領内の全スラブ人およびモンテネグロ公国(1852年より政教分離)が一斉に立ち上がり、オーストリアの参戦もあり勝利を収める。
 その結果バルカン半島の各国は独立するが、セルビアも北部をほぼ回復して王国として独立、モンテネグロも独立を承認されて領土を拡大し、アドリア海への出口である念願のバール港を手に入れる。しかしオーストリアの影響はますます強くなり、セルビアやモンテネグロを影響下におき、ボスニア・ヘルツェゴビナ全域とモンテネグロ北部は、トルコの名目上の宗主権を認めながら事実上オーストリアが併合する。




西暦1920年頃

第一次世界大戦とユーゴスラビアの成立


 1908年、オーストリアは突然ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。セルビアを始めとするスラブ人諸国は大反対するが、有効な対策がみつからなかった。

 1912年、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアの各国はトルコのますますの衰えを見越して、占領地を回復すべく第一次バルカン戦争を起こし、トルコに宣戦布告する。戦争は大勝利を納めたが、回復地の分配から内紛が生じ第二次バルカン戦争が始まる。セルビア、モンテネグロはここでも勝利をおさめ、トルコ支配地の回復を完了する。ここでセルビア人国家同士である、セルビアとモンテネグロは国境がつながり、セルビア人は海への出口を得る。

 セルビアの大発展は南スラブ諸民族に連帯意識を高めると同時に、ギリシアから中近東への道を確保したいオーストリアに強い警戒心を抱かせた。
 1914年、オーストリアはボスニアのサラエボで皇太子が何者かに殺されたのを口実にセルビアに宣戦布告し、ここに第一次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
 同盟軍(ドイツ、オーストリア、ブルガリア、トルコ)はまたたく間にセルビアとモンテネグロを占領するが、セルビア・モンテネグロ軍はモンテネグロの山岳地帯で良く持ちこたえ、政府を協商側のギリシア領コルフ島まで後退させて、ロシアの反撃とアメリカの介入で同盟軍の勢いが衰えるのを待った。セルビアとモンテネグロはこの大戦で大きな犠牲を払い、人口の2割〜4割を失った。

 最終的な勝利を得たあと、戦後処理としての領土の配分が国際的に協議されたが、周辺の諸外国、地域内のスラブ人諸民族の駆け引きから容易にはまとまらず、1918年ようやくセルビア・クロアチア・スロベニア王国が誕生した。1929年にはユーゴスラビア王国を名乗る。またイタリアはベネチア共和国が失ったイタリア人の土地の回復をはかってこの大戦に参戦し、スロベニア西部とイストラ、ツァーラ、ラストボ島はイタリア領となった。実際一部の都市ではまだイタリア人が住民の過半数を占めていたのである。
  このスラブ人による初の統一国家はセルビア王国をそのまま引き継いだものであったため、クロアチア人、スロベニア人、およびトルコが去った後のボスニアに残るイスラム教徒にとっては、異民族支配そのものであった。なぜならオーストリアやトルコの統治下よりははるかに良いものの、同じスラブ人とはいえ宗教も文化も異なるセルビア人は他民族から見れば受け入れがたいものであったからである。
 特に非セルビア人として最大勢力であるクロアチアは反発を強め、1932年民族主義組織ウスタシャが設立される。また1939年自治州として認められ、このことは王国内の他民族にもおおいに刺激を与えた。




西暦1940年〜1954年

第二次世界大戦の前後



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 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに進軍し、第2次世界大戦が始まる。当初ユーゴスラビアは中立を守った。
 周辺諸国のほとんどが枢軸側に参加する中、やむをえず1941年3月25日枢軸側に参加する。しかし国内の反発は強く、2日後に中立派のクーデターがおこる。しかし10日後の4月6日、情勢を憂慮した枢軸軍が攻撃を開始する。11日後の4月17日、ユーゴスラビアは実質的に消滅し、セルビアをドイツが占領した。またドイツ軍の指導もとウスタシャ政権によるクロアチアが成立する(現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナがほぼその領土に該当する)。その他の地域は隣接するドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニアがそれぞれ失地回復を行い分割された。なお、このユーゴスラビア分割は国際的には認められていない。
 ドイツ占領下のセルビアでは3つの勢力が互いに激しく戦った。ドイツ軍に対抗し民族主義のチェトニクと共産主義のパルチザンがほぼ同時に活動を活発化させた。チェトニクは民族浄化を掲げ、クロアチア人、ムスリム人(イスラム教徒)の粛清を始めるが、ドイツ占領軍との半協力的な姿勢から広がりを見せず、全スラブ人の解放をあげるパルチザンの浸透が進んだ。
 一方ドイツ、イタリアと友好関係にある国粋主義政党であるウスタシャ支配下のクロアチアでは厳しい民族浄化が行われ、クロアチア国内のセルビア人の約2割が殺された。同地域のセルビア人、ムスリム人に多大な怨恨を残し現在に至っている。
 ティトー率いるパルチザンはセルビア南部のヴジツェ、フォチャへと後退を重ね、さらにビハッチへとボスニア(当時はクロアチア国内)の山岳地帯を間一髪で逃げ伸びながらも、ユーゴスラビア全土で支持を獲得していく。1943年9月8日、イタリアが降伏するとクロアチア南部から勢力を盛り返してドイツ軍と一進一退の戦闘を続ける。1944年6月、前線のヤイツェを追われアドリア海のヴィス島に司令部を下げ、連合国と共同で体制を立て直し反撃する。しかしこの年、ドイツはすでにフランス、東欧などの占領地のほとんどを失いつつあり、ソ連軍がバルカンに進撃を開始して間もない10月にはパルチザンはベオグラードを解放した。1945年3月、ユーゴスラビア共産党による連邦人民共和国が正式に発足する。この共和国は旧ユーゴスラビア王国とほぼ同じ領土であったが、アドリア海沿岸のうちイストラ半島などイタリア領であった地域を獲得し、1954年には連合国管理下の元イタリア領コペルを獲得した。
 新国家ユーゴスラビア連邦は民族別の6つの共和国から成り立っていた。その共和国の国境はおおむね歴史的経緯に沿ったものではあったが、複雑な民族構成を完全に反映したものなど制定し得るはずもなく、1991年から始まった内戦の直接的原因の一つになっている。





西暦1980年〜1991年

東欧の民主化とユーゴスラビア諸民族の権利拡大


 ティトー統治下のユーゴスラビア共和国は、パルチザンの英雄ティトーへの個人的信頼、政府の国内一体化政策、冷戦下における国際関係の緊張などの中、表面的には安定を保つが、小規模な内乱や自治権拡大運動は頻発した。
 1980年、英雄ティトーが死去すると、国内は動揺し始めた。おりから国内の経済は低迷し、それが民族主義の台頭に火をつけた。セルビア内のコソヴォ自治州はアルバニア人が人口の9割を占め、1968年、1981年の反乱を始め小規模の動乱が散発していたが、1990年7月ついに独立を宣言した(1999年2月現在、内戦状態となっている)。
 一方連邦の北端に位置するスロベニアは元来ドイツやイタリアとの結びつきが強く、経済的な発展、西欧的な気質などの点でセルビアと大いに異なっており、些細な事件を発端に1987年頃から反セルビア意識が強まりつつあった。
 1990年、東西ドイツが再統一され東欧の民主化が進むなか、ユーゴに初めて導入された複数政党制選挙が実施されると、セルビア人が多数を占めるセルビアとモンテネグロを除いてはいずれも民族主義政党が勝利を納めた。
 こうなると連邦崩壊は時間の問題であった。国家連合形態のあり方をめぐり連邦内各国の対立は収拾がつかず、1991年6月スロベニアが独立を宣言し、クロアチアもやや曖昧ながら事実上の独立を宣言した。このスロベニアとクロアチアの宣言の特徴は、セルビア人支配からの脱却もさることながら、先進地域である自国を後進地域である他の地域から切り離したいという、経済的な切り捨て思考に基づいた部分が少なからずあったということである。





西暦1991年〜1996年

内戦と各民族の独立


 スロベニアとクロアチアで1991年6月、独立宣言が出されるとそれまで駐留していたユーゴスラビア軍はいまや自動的に侵略軍となって両国内に孤立してしまい、すべからく戦闘が始まった。スロベニアではECの調停で即座に停戦が実現されたが、クロアチアでは連邦軍が人種別に分解するなか戦争が勃発した。クロアチアではさらに少数民族のセルビア人がクライナ・セルビア人共和国として独立宣言を出して対抗し、紛争はますます複雑化した。1991年12月のドイツによるスロベニア、クロアチア承認、1992年2月の国連保護軍の出動により、クロアチア独立の大勢は決し鎮静化に向かった。
 クロアチア内のセルビア人は国連保護軍の管理下で独立状態を達成していた。クロアチア政府との交渉が進展しないのに業を煮やしたトゥディマン大統領指揮下のクロアチア軍は1995年5月突如クライナ・セルビア人共和国に侵入し、11月までにはクロアチア全土を解放した。多くのセルビア人は難民となって国外に逃れた。
 両国に続いて、1991年11月にはマケドニアが、1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言する。特に民族構成の複雑なボスニアは、独立派のムスリム人、クロアチア人と連邦残留派のセルビア人による激しい対立が起こった。独立宣言によりここでも連邦軍は外国軍となって存在意義を失い、たちまち各人種別にばらばらになり互いに戦闘を始め、激しい内戦の火蓋がきって落とされた。調停案はことごとく当事者に拒否され事態の収拾は遅れた。1995年にはいると早期収拾を望むNATO軍がついに独立派であるムスリム人、クロアチア人側について戦闘に参加し、セルビア人を追い込んでいった。1995年12月、ついに3勢力はムスリム・クロアチア人とセルビア人とに2分割する調停案を受諾し、内戦は終結した。ここに旧ユーゴスラビア連邦の消滅が確定した。


1991年〜1995年の内戦の詳細な経緯





[補訂]

西暦1997年〜1999年

コソボ紛争


 旧ユーゴスラビア時代から紛争が続発しており、1990年以来独立を宣言していたコソヴォ自治州は、ミロシェビッチ政権下で自治州議会と政府の機能停止を宣告された。
 自治州内で多数を占めるアルバニア系住民の不満が高まる中、反政府組織であるコソヴォ解放軍は大きな力を持つようになり、ついに1998年2月にユーゴスラビア政府軍との間で大規模な衝突が発生した。
 ユーゴのコソヴォ自治州への圧力の背景には、ユーゴ国民の民族主義的関心のほか、ユーゴ内戦以来の国際的な準孤立状態や経済苦境に対する国民の不満を外に向けようという、ミロシェビッチ政権の求心力を求める動きも大きな動機として働いていた。
 コソヴォはセルビア民族の聖地でもあり、また現在では多くのアルバニア人の故郷でもあるため、両者とも民族主義的な観点から譲歩できない状態にまで緊張は高まり、これを機にユーゴ当局とコソヴォ解放軍とがそれぞれの支配地域を確保しながら、交戦状態に入った。
 国連やロシア、EUなどの調停は、ユーゴ当局、コソヴォ解放軍とも主権にこだわりを見せたため不調に終わり、ユーゴはとうとう連邦軍を投入して、1998年9月にはコソヴォを制圧した。
 しかし同12月の解放軍によるセルビア人殺害を契機に、再度激しい戦闘が始まった。双方の殺戮が繰り返される中で、翌1999年1月ラチャク村で40人のアルバニア人が虐殺された。これがマスコミで大きく報道されたこともあり、反セルビア感情の強い欧米各国は、各国国民の大きな声をバックに一気に軍事圧力を強めた。
 空爆予告下で幾度も和平案が提示されたが、欧米の期待していたミロシェビッチ政権の弱体化は起こらず、かえってセルビア人への国際的な脅迫は、ミロシェビッチ不支持派を含めた挙国一致体制を作り上げることとなり、問題解決を遠のかせてしまった。ユーゴ当局とコソヴォ解放軍は何度もの和平案にも合意には至らず、3月24日にはついにアルバニア人の保護を理由に国連の決議無しにNATO軍の空爆を開始した。

 当初は軍のみの攻撃であったが、ユーゴ国民の結束はかたくミロシェビッチ政権の安定が保たれ徹底抗戦を宣言しているため、NATO軍は徐々に攻撃対象を公共施設へと広げ、市民の死傷者が増えていった。
 またこの間ユーゴ連邦を構成する一国家であるモンテネグロ共和国も連邦軍が駐留しているため、直接にはこの問題に無関係であり(むしろコソヴォ難民の受入先になった)、セルビアに対し批判的態度を取りつづけたにもかかわらずNATO軍の爆撃を受けることとなった。  一方コソヴォ自治州内では戦争状態に突入したためユーゴ軍によるアルバニア人迫害が急速に拡大し、アルバニア人の多くが家を焼かれ国外に逃れた。
 NATO軍による空爆は、対空砲火を避けて高度上空からの爆撃に終始したため、ユーゴ連邦軍は大きな損害を受けずに温存された。そのためNATO地上軍の投入が真剣に検討され始めた。

 市民の被害が拡大し、また民族的・宗教的に近くユーゴが頼りとするロシアも、ユーゴに配慮しながらも基本的に欧米に追従する方向が強まり、地上軍による本格的な戦闘を目前にして、6月3日にはユーゴ連邦のセルビア議会・政府は和平の受諾を決定し、和平への方向性が示された。
 1999年6月10日、ユーゴスラビアは和平を受け入れ、コソヴォからのユーゴスラビア連邦軍の撤退とNATO軍を中核とする国連軍の駐留を認めた。コソヴォに置けるユーゴの主権は確保されたが、コソヴォは事実上NATOを中心とする国連管理下におかれることになった。
 この和平案の成立により約2ヶ月半におよぶ空爆に終止符が打たれたが、コソヴォ解放軍は戦闘の停止では合意したものの、独立を目指す姿勢には何ら変化がなく、問題の再燃が懸念される。





[補訂]

西暦2006年

モンテネグロ独立


 2006年5月、セルビア・モンテネグロ連邦のモンテネグロ共和国は国民投票において、ジュカノビッチ政権が兼ねてから主張していたモンテネグロ独立を賛成55.4%でかろうじて承認した(55%以上で承認)。
 数年来、国境管理や通貨管理などで独自性を強めていたモンテネグロに対し、セルビアも折込み済みとして反対はせず、最後の旧ユーゴスラビアの連邦体が解体した。





          


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