地中海,ユーゴスラビア,モンテネグロ,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア
  「地中海生活」 1996年 増刊号 ( 11月12日発行 増刊第1号 ) 旧ユーゴスラビアの歴史−2



アドリア海沿岸バルカン半島(旧ユーゴスラビア)の歴史−2




西暦924年

クロアチア王国の建国、南スラブの混乱期の始まり


 ビサンツ(東ローマ)帝国が後退し、フランク王国が分裂する中、トミスラヴによりクロアチア王国が建国される。

 北からはハンガリーがクロアチアに侵入、また東からはブルガリアが押し寄せ明瞭な国家を持たないセルビア人諸侯と激しく領土を奪い合う。

 スロベニアも混沌としており、帰属が特定できていない。このあと962年、スロベニアおよびイストラは神聖ローマ帝国に組み込まれ、以後帝国内の諸公のあいだを転々とする。

 一方沿岸部では、西からベネチア、東からビサンツ帝国、内陸からスラブ人がせめぎ合っていた。




西暦1042年

セルビア王国の建国、東西両教会の分裂


 クロアチア王国は国力を強化するが、やはり発展しつつあるベネチア共和国にダルマチアの海岸を押さえられる。ベネチアはビサンツ帝国から行政権の委託を受ける形でダルマチア支配を始める。ラグーザ等一部の都市は、戦闘と妥協の中で独立や自治を維持する。

 1042年、ヴォイスラフがセルビア人を統合して、セルビア南部からマケドニア、モンテネグロにまたがる地域にビサンツ帝国王を元首に抱く自治王国を建国する。事実上の独立が達成される。

 現在のセルビア、クロアチアの北部地域には、今世紀初頭に至るまでハンガリー人が定着する。

 東西両教会の対立はついに1054年の相互破門に至り、決定的になる。




西暦1102年

クロアチアにハンガリーが進出


 クロアチア王国の内紛に乗じて、膨張しつつあったハンガリー王国のカールマンががクロアチア王を兼任する。以後今世紀初頭までほぼ継続的にクロアチアはハンガリー王国と国家連合を形成する。しかしそれは、実質的にハンガリー内の自治国になったことを意味する(ここではクロアチア自治国と表示する)。

 セルビア王国は一時的にボスニアに拡大する。

 一方小アジアでははセルジュク・トルコ帝国が、現在のトルコから中近東にかけての地域で急速に拡大する。キリスト教徒保護の目的で1096年に第1回十字軍が派遣される。



西暦1204年

ボスニア首長国の勃興、南スラブ地域を取り巻く国際環境の大きな変化


 1180年、バン(首長)のクリンがボスニアの一部に国家を形成する。ボスニアはブルガリア僧に起源を持つキリスト教ボゴミール派を受け入れ、以後ボスニア教会が力を持つ。

 セルビア王国は内戦や1203年のブルガリア王国の再興などでいったん縮小する。しかし1196年に即位したネマーニャ朝のもと王国の基礎を固め、名目上もビサンツ帝国から独立を達成し、発展し始める。

 ダルマチアは、1171年、一時的にビサンツ帝国が奪還するが、その後はハンガリーとベネチアの間で激しく争われ、国境が一定しない。内陸部からは山岳地帯で隔てられ孤立したこの海岸地域は、ラグーザ等の自治を有するローマ人都市国家群や、国家権力の及ばぬバン(首長)の領土が多く、混沌とした状況が続く。1204年の第4回十字軍もこの地域に立ち寄り、ベネチアの支配拡大に貢献した。

 ベネチア共和国はアドリア海で力をつけてきており、第4回十字軍で1204年ビサンツ帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させた。1261年に首都を奪還するまでビサンツ帝国は現在のトルコに避難する。

 またこの時期、元(モンゴル)が大発展し、1240年にはハンガリーと長大な国境を接するに至った。ハンガリー(クロアチアを含む)も侵攻を受けるが、元軍は進路を中近東に変じ難を逃れる。



西暦1300年頃

ボスニア首長国の消滅


 1252年、ボスニアはハンガリーに事実上吸収され、支配者もハンガリー人、クロアチア人、地元首長の自治などと、年代や地域により複雑に入れ替わる。

 セルビア王国は、往時の勢いがないビサンツ帝国からアルバニアやマケドニアを奪い領土を広げる。

 ダルマチアでは、ラグーザ、スパラート、ツァーラ等のローマ人都市が自治を持ちながらたびたびベネチアとハンガリーの間で支配権を変えている。とくにラグーザは代表権をベネチア、ハンガリー、後にはトルコに譲りながら高度な自治を受け、ベネチア同様に海運都市として、大きな影響力を保ち続ける。

 スロベニアは神聖ローマ帝国内のハプスブルグ領(オーストリア)となり、事実上オーストリアの一部となる。





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