「地中海生活」 1996年 増刊号 ( 11月12日発行 増刊第1号 ) | 旧ユーゴスラビアの地中海諸国 |
「地中海生活」で紹介している、ギリシア、イタリア、スペインなどの国々は日本の方々にも比較的イメージが良く、行ったことがある、行ってみたいという方もたくさんいらっしゃると思います。
しかしその中で旧ユーゴスラビアに属していたスロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、新ユーゴスラビアについては、もともと馴染みが薄い場所でとりたてて強いイメージを持っていない方もたくさんいたかもしれません。ところが、最近の相次ぐ戦争報道によりようやく日本にとっても知られた場所になってきました。
しかしマスコミが戦争中心の報道に終始しているため、本当の姿は意外と知られていません。先日あるレストランでたまたま、この地域に旅行した人がその友人に話をしているのを耳にしました。その内容はいかに自分が危険な地帯を旅行してきたかという度胸のほどを得意げに話しているというようなものであり、大変に悲しくなりました。しかし実際のところ、「荒れ果てた国土に戦争ばかりしている民族が住んでいる野蛮な場所」というイメージが日本人にとっての平均的な旧ユーゴスラビアのイメージであるのかもしれません。
「地中海生活」では、その誤解を解き、これらの国々での生活について興味をもっていただくために今回は特に旧ユーゴスラビアに属する地中海沿岸諸国に関するページを作りました。現在の状況を説明するとともに、その歴史にもふれてみたいと思います。
この地域では近世から現代にかけて、中世以前のような戦乱が依然として続いているのは事実ですが、それが望まざるものであり、避けられないものであったという背景をここで説明します。このページをごらんになれば「地中海生活」本文の内容がよりよく理解できるものと思います。
- 旧ユーゴスラビアの地中海諸国の紹介
- 旧ユーゴスラビア地域の民族
- なぜ紛争が続くのか
この地図をごらんになってください。いろいろな文字があることにお気づきでしょう。この地図のなかには既に、3種類の文字と10種類のアルファベットが登場しているのです。このことはユーゴスラビアに関するすべてを象徴的に物語っています。
旧ユーゴスラビアを構成していた国々は西からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、(新)ユーゴスラビア、マケドニアの5ヶ国です。
ユーゴスラビア連邦から次々と各国が離脱した結果、現在の連邦にはセルビアとモンテネグロの2ヶ国のみが残っています。セルビアにはさらにヴォイヴォディナ、コソボの2つの自治州が含まれます。
このうち地中海に面していないマケドニアを除く4ヶ国が地中海諸国であるといえます。
現在の国境とは別に、国境にまたがっているものの歴史的に見て一つの地域であるところがいくつもあります。地中海沿岸では、クロアチア、スロベニア、イタリアにまたがる半島状の地域であるイストラ、クロアチアのイストラからボスニア・ヘルツェゴビナ、(新)ユーゴスラビアまでのアドリア海沿岸地域を指すダルマチアなどがあります。
枠内の部分は、歴史地図に掲載した範囲を示しています。
みなさんのうちで既にいろいろご存じの方にとっては、地名や人名が異なって表記されているかもしれません。それは現地の言葉、ドイツ語、イタリア語、英語、日本語(日本語的に訛ったもの)のいくつもの表現が平行して用いられ、それぞれが微妙に(あるいは大いに)異なるからです。ここでは日本語として定着したものを除いてはなるべく現地の言葉を採用し、必要に応じて日本語を添えるようにしました。
国名 (日本語) | スロベニア | クロアチア | ボスニア・ヘルツェゴビナ | ユーゴスラビア 現在セルビアと モンテネグロに分離 | マケドニア |
---|---|---|---|---|---|
国名 (原語) | SLOVENIJA スロベニヤ | HRVATSKA フルヴァツカ | BOSNA I HERCEGOVINA ボスナ・イ・ヘルツェゴビナ | JУГOCЛABИJA ユーゴスラビヤ | MAKEДOHИJA マケドニヤ |
国土 | ドナウ川の支流ドラヴァ川、サヴァ川沿いの丘陵、森林地帯に国土が広がる。 | 国土は中世におけるトルコの侵攻により、内陸の北部、沿岸の南部に分断されている。 | ディナール・アルプスの丘陵、山岳地帯に国土が広がり、地中海に小村ネウムを有するが実質的に内陸国である。 | 旧ユーゴスラビア連邦からの各国の離脱により残ったセルビア、モンテネグロの2国が連邦を構成している。セルビアにはヴォイヴォディナ、コソヴォの両自治州が含まれる。コソヴォ自治州は1998〜1999年の内戦を経て現在国連管理下に置かれている。 | ギリシア北部の山岳地帯の山岳地帯にあるこの国は、元来周辺諸国による争奪を繰り返され、諸民族が共存している。 |
面積 | 20000 km2 四国くらい | 57000 km2 九州+四国くらい | 51000 km2 中国+四国くらい | 102000 km2 関東+東北くらい | 26000 km2 関東くらい |
人口 | 205万人 | 467万人 | 320万人 | 1048万人 | 216万人 |
民族 *2 | スロベニア人 93% | クロアチア人 78% | ムスリム人 44% | セルビア人 63% | マケドニア人 65% |
言語 *3 (主要なもの) | スロベニア語 | クロアチア語 | セルビア語(キリル文字) | セルビア語(キリル文字) | マケドニア語(キリル文字) |
宗教 *4 (主要なもの) | カトリック | カトリック | イスラム教 セルビア正教 カトリック | セルビア正教 イスラム教 | マケドニア正教 イスラム教 |
GNP (1990年) | 6280$ | 3757$ | 1988$ | 2549$ | 1918$ |
- *1
- 北部のヴォイヴォディナ自治州はセルビアが第一次世界大戦での勝利によりハンガリーから獲得した土地であり、現在でも人口の約2割がハンガリー人であり、セルビア色がやや薄い。
南部のコソヴォ自治州は人口の8割以上がイスラム教を信仰するアルバニア人であり独立問題が常にくすぶり続けている。 - *2
- セルビア人、モンテネグロ人はほぼ同一である。ユーゴスラビア連邦内での国籍の相違のみにより区別される。
セルビア人とクロアチア人は人種的にほぼ同一である。異なった歴史経験を持つことで区別されている。
- *3
- セルビア語とクロアチア語は1991年に分離されたものでありほぼ同一である。ただし使用する文字が異なる。
マケドニア語はブルガリア語とかなり近く、セルビア語とも近い。 - *4
- セルビア、マケドニアの各正教はギリシア正教の流れを汲む教会である。またイスラム教はムスリム人、アルバニア人に信仰されている。
南スラブ(旧ユーゴスラビア)の複雑な現状を理解するには次の4つのキーワードがポイントになります。
人種 | 宗教 |
言語 | 歴史 |
ここで、「民族」というキーワードが出てこないことを不思議に思われるかもしれません。
というのは、民族とはこれら4つの要素が混然となって形成されるものなのであり、ややあいまいな概念だからなのです。そこで民族というキーワードよりも更に具体的な歴史、宗教、言語、人種という4つの明瞭なキーワードで分類しました。
民族というものが絶対的なものではなく、これらの要素の混じり合った結果として何となく決まっていくということは、私たち日本人には理解しにくいことかもしれません。
しかし、たとえば旧ユーゴスラビアにおける激しい内戦のおおもとであった民族の分類は、驚くべきことに自己申告制で決められていたのが実際です。またユーゴスラビアでは第二次世界大戦後、二つの民族区分が新たに政府により認定され発生しています。つまり民族を区分する客観的で明確な基準などはありえないといえるのではないでしょうか。
(1)旧ユーゴスラビア地域の人種
人種的にみると、6世紀〜8世紀にこの地に定住したスラブ人が大半を占めています。スラブ人はさらにスロベニア人とその他南スラブ系諸民族(セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、ムスリム人などで人種的にはほぼ同一)とに分類されます。
また歴史上の先住民族であるアルバニア(イリリア)人、彼らの次に定住したラテン系諸民族(イタリア人、ヴラフ人、ルーマニア人)、スラブ人の後に中央アジアからきたハンガリー人、中世から現代までの占領期間中に住み着いたトルコ人とドイツ人、セルビア人などと同じ南スラブ系ながら常に領土を争ったブルガリア人、流浪民族のジプシーなど、数多くの民族が少数民族として存在しています。
(2)旧ユーゴスラビア地域の宗教
この地域では主に正教、カトリック、イスラムの3種類の宗教が広まっています。
バルカン半島は歴史的にはキリスト教の影響下に置かれてきました。キリスト教は当初政府に厳しく弾圧されてきましたが、古代ローマ帝国の国教に指定されると急速に発展し、5世紀には地中海周辺の全域に流布しました。
しかし帝国の東西分裂以後、政治的に別の道を歩み始めた東西キリスト教は8世紀頃から激しく対立し、11世紀には正教およびカトリックとして正式に別々の宗教になりました。両者の信者争奪戦は南スラブ諸民族を分断し、正教を受け入れた者がセルビア人、カトリックを受け入れた者がクロアチア人となりました。1991年に始まった内戦の過程でも、欧米がセルビア人を敵視した原因の一つとして彼らが異教徒であることがあげられ異教徒である、この対立が心情的に現在でも続いていることを端的に示しています。
15世紀〜20世紀にかけてバルカン半島に進出したトルコは、宗教的にはイスラム教を強制せず、むしろトルコ占領下のコンスタンチノープルにあった正教の総本山の威を借りる形で正教信仰による統治を行いました。しかしイスラム教徒が優遇される社会であったため自主的な改宗が徐々に進み、スラブ人の一部とアルバニア人の多くがイスラム教徒になりました。このとき改宗したスラブ人はムスリム人という新たな民族になりました。
また政治的には滅亡させられたギリシアの権威の低下と、いまや支配者であるトルコの先兵となった総本山を嫌い、各正教会は地域ごとに独立しセルビア正教、マケドニア正教が生まれました。
(3)旧ユーゴスラビア地域の言語
言語はその民族の文化の伝達手段であり、民族を理解する上で重要な要因です。
初期の言語は部族内での各個人間の意志の疎通を図るためのものでしたが、宗教の布教、政治的な支配体制の確立のために、次第に地域内の共通語が整備されていきました。従って言語にはその地域の歴史が凝縮されているといえます。
この地域では現在大きく分けてラテン文字、キリル文字の2種類が使われています。アルファベットは国によって異なり、ラテン文字圏、キリル文字圏とも基本的は似ています。しかし多くの国が独自の文字も使っているためアルファベットは国によって異なります。
ラテン文字、キリル・ギリシア文字の境界線とキリスト教の東方教会(ギリシア正教、スラブ系各正教)、西方教会(カトリック)の境界線が一致していることは、文字が教義伝達の手段として整備された面が大きいことを表しています。
このほか、キリル文字とほぼ同時代に発明されたグラゴール文字は、ラテン文字およびキリル文字にすぐさま駆逐されましたがクロアチアで生き残り、一部では19世紀まで使われていました。
また文字は民族意識の象徴でもあり、政治的に変更されるケースもありました。クロアチアではキリル文字の使用禁止がセルビア人の民族意識を刺激し、またルーマニアでは19世紀の独立の際、キリル文字からラテン文字に変更しています。
言語的には各民族に対応してそれぞれの言語が存在しています。主要言語としてはスロベニア人の話すスロベニア語、クロアチア人の話すクロアチア語、セルビア人の話すセルビア語、マケドニア人の話すマケドニア語の4種類が存在します。しかしクロアチア語、セルビア語、マケドニア語は似ており、特にクロアチア語とセルビア語は1991年に分離したばかりなので文字は異なりますが、発音は方言ほどの差すらあるかないかという程度です。
またモンテネグロ人は1391年にセルビアから分離するまでは元来セルビア人であったのでセルビア語を話します。またムスリム人は宗教を除けば言語なども含めセルビア人、クロアチア人と変わりがなく、セルビア・クロアチア語を話します。
言語の大分類別の構成をみても、この地域には系統的にかなり異質の言語が並立している様子がよくわかります。しかも実際には各国にいくつもの民族が居住してそれぞれの言語を使用しているため、さらに複雑な様相を示しています。
南スラブのスラブ人はロシアや東欧のスラブから孤立し、他民族に囲まれて住んでいます。このことは政治的にも常に周囲の民族の支配を受け各国の勢力拡大戦争の最前線であったことを意味しますが、言語的にもその都度の支配者の影響を強く受けています。また近隣民族の言葉が商品や文化と同時に流入したこともあり、ギリシア語、ラテン語、トルコ語、ドイツ語などの語彙がかなり混じっているのも特徴です。
この図は、各国の最大民族が使用している言語を基準に大ざっぱに作成しました。実際には少数民族が入り組んでおり、きわめて複雑な様相を示しています。
言語の分類法は・・・・語系などのように大分類にとどめており、実際は相当に細かく個別の言語や方言に分類されます。
分類法については種々の学説があります。また国家の誕生などの政治的な理由で言語が新設されることもあります。従って一定の見解があるわけではなく、この図は一つの考え方の紹介にすぎません。
(4)旧ユーゴスラビア諸国の歴史
ユーゴスラビアを含むバルカン半島の過去は抗争の歴史でもありました。しかしそれは日本も含めどこの国でもあったことです。
しかしその特徴を探すならば、今世紀に入ってその抗争がもっとも激しくなったということでしょう。今世紀の2度にわたる大戦と最近の内戦で、国家の人口の何割もの人が亡くなっています。
歴史上わかっている期間を定住民族別に大ざっぱに分類すると、紀元前3世紀までのイリリア人の部族社会とギリシア人植民都市の時代、紀元前2世紀から7世紀頃までのローマ人の時代、8世紀頃からのスラブ人の時代の3つに分けられるのではないでしょうか。
またスラブ人の時代も各民族ごとに中世の独立王国の時代、それ以後の外国占領下の時代、19世紀から20世紀の独立達成の時代に分けられると思います。
このあまりに煩雑な歴史についてここに語るのは容易ではありません。図を多用して年代別にわかりやすく整理した、こちらのページをご覧ください。
なおここでは地名はその時点のものを用い、現在の都市名をかっこ書きで付け加えました。
- アドリア海沿岸バルカン半島(旧ユーゴスラビア)の歴史
- 9世紀まで
- 10世紀〜13世紀まで
- 14世紀〜17世紀まで
- 18世紀〜20世紀まで
- 1991年〜1995年(ユーゴスラビア内戦)
なお、そのページで使用した略図に関して補足いたしますので、特に興味のある方は以下の注釈をご覧ください。
略図ではとりあえず、どこの領土であったかを断定的に表示しました。ただし、
- 何重もの権力構造(オーストリア支配下のハンガリー支配下のクロアチアなど)
- 名目上の統治者と実質上の統治者(ダルマチアを巡るベネチアとビサンツ帝国など)
- 自治とみなすか独立ととるか、同盟とみなすか支配ととるか(ハンガリーとクロアチアなど)
- 一見独立のようでも大国間の勢力争いのバランスの上に成り立っている。
- 政治権力とは別に、文化・宗教的影響力は別の国が保持している。
- 地元諸侯が支配しており国家の様相をなしていない。
- あまりにも支配権がしばしば移っていて支配者を明確にできない。(14世紀頃のダルマチアなど)
などのケースがあり、本来は一概に断定できないものであることはいうまでもありません。しかしここではわかりやすくするため敢えて略図を使用して説明しました。
紛争が続く原因は単純ではありませんが、次のようなことが重なり合っているものと考えられます。
- 複雑な民族構成
民族大移動による民族の入り交じり(スラブ、ラテン、マジャール、ギリシア、トルコ、ドイツ)
歴史上の戦火や宗教弾圧を逃れる難民
複雑な地形(難民が一方向に行かずに、バラバラに分布する) - 後々大きな影響を残した個別の歴史的事件
紀元前2世紀からのローマ人の侵入
395年の東西ローマ帝国の分裂
5〜6世紀頃に始まるスラブ人の侵入
東西両教会の分裂
トルコの侵攻(トルコ支配地域、軍政地帯、セルビア難民)
オーストリア・ハンガリーの圧政と民族分断政策
第二次大戦中のウスタシャとチェトニクによる相互民族浄化
1991年〜1995年のクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴビナの内戦 - これらの諸事情が残した民族間の気質の違い
- 政府やマスコミの宣伝による憎悪の増幅
- 周辺大国の圧力や先兵
最近100年以内に限ってさえ、イタリア、トルコ、ハンガリー、オーストリア、ドイツの各国が直接に支配したことがあり、さらにアメリカ、イギリス、ロシアなどの有力国が権益や影響力を求めた介入が行われる。中には大国間の代理戦争としての性格を有する戦争もあった。 - ユーゴの諸民族の主張する領土が重なり合うこと
ユーゴ在住の諸民族のうち、クロアチア、セルビア、ボスニア、マケドニア、アルバニア、ハンガリー、オーストリア、イタリア、トルコ、ブルガリア、ドイツがいずれも過去または現在にユーゴスラビアの領土を領有したことがあり、各国の主張する領土に重なりが生じている。
これらの原因のうち中には過去に原因があり今となっては仕方ないものもありますが、4、5の理由などは全くの人災であり、本来起こらなくてもよかったものです。
内戦が勃発したクロアチアは現在復興が軌道に乗りつつあります。またボスニア・ヘルツェゴビナもようやく戦闘が止まり復興への道筋が整いつつあります。
この内戦で増幅した憎しみは、簡単には消えることはないでしょう。しかし今度の内戦を通じて多くの地域で民族の棲み分けが徹底的に行われたことが、ひょっとすると紛争の火種を小さくすることに繋がるかもしれません。
復興のためには、風光明媚なアドリア海沿岸のこの地方にとっては、観光が重要な柱になるはずです。実際に、観光客が戻ってきて自分たちの生計の道が開けたことを何よりも喜んでいることを、現地を取材して肌で感じました。みなさんが観光に行き現地でお金を使うことは、立派な復興の手助けでもあります。
また内戦が終結し特定の場所以外は安全になった今(1996年10月)でも紛争関連報道に終始し、観光客の足を遠ざけるのに力を貸している日本のマスコミに対しても、「地中海生活」は大いに不快感を表明します。