地中海,ユーゴスラビア,モンテネグロ,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア
  「地中海生活」 1996年 増刊号 ( 11月12日発行 増刊第1号 ) 旧ユーゴスラビアの歴史−1



アドリア海沿岸バルカン半島(旧ユーゴスラビア)の歴史−1




紀元前500年頃

原住民の世界とギリシアの植民都市


 このころ、アドリア海沿岸はイリリアとよばれる未開地で、原住民が住んでいた。  またギリシアの植民都市としてイッサ(ビス)、コルクラ・ニグラ(コルチュラ)、ファロス(フバール)、サローナ(スプリット)、トラグリオン(トロギル)、現ノビグラード等が沿岸の所々に見られた。  アレキサンダー大王のペルシア帝国がイリリアの目前まで迫ったが、この地を支配することはなかった。



紀元前200年頃

ローマの進出


 古代ローマ共和国が発展し領土を広げる。イストラのパレンチウム(ポレッチ)、ポレンシウム(プーラ)などを拠点にローマはイリリアに進出を開始する。沿岸部から徐々にローマの勢力圏に組み込まれていく。



西暦9年

ローマの支配


 ローマ帝国が更に拡大し、ヨーロッパ、トルコ、アフリカにまたがる大帝国になる。イリリア内陸部まで支配を広げる。イリリアにローマ人が多数住み着く。



西暦395年

ローマ帝国の分裂


 ローマ市は次第に力を失い、ローマ帝国の首都は324年コンスタンチノープル(イスタンプール)に移され、中心が東に大きく移動する。ついに395年、東西の両帝国に分裂する。

 旧ユーゴ内を通過するこの国境は、後にギリシア文化、ギリシア正教を中心とする東方と西欧文化、カトリックを中心とする西方とを隔てる境界線として、多少の変動はあったものの今日まで受け継がれている。



西暦450年〜550年

東ローマ帝国の繁栄と旧西ローマ帝国の混乱


 西ローマ帝国は程なく瓦解し、各地で群雄割拠となる。一方東ローマ帝国は発展し、西方の混乱に乗じてダルマチアを窺い、支配を次第に確実にする。一方旧西ローマ領内は、民族大移動の影響もあり、支配者、住民ともたびたび変動し安定しない。



西暦700年頃

スラブ人の侵入と定着


 内陸部ではアジア方面からの諸民族が次々と襲来する。567年に侵入したアヴァール人が内陸に定着するのに伴い、やはりアジア方面から移動してきたスラブ人の諸集団(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人)は圧迫されて、南方へ侵入する。

 東ローマ帝国内のバルカン半島は、大挙して押し寄せたスラブ人に事実上占拠される。統治権は依然として東ローマ帝国が握っており、ロシアなど北方のスラブから孤立したこの地域のスラブ人(特に東ローマ帝国領深く侵入したセルビア人)にギリシア人とギリシア正教の影響が強まる。

 この時期から南スラブ人の歴史が始まる。



西暦806年

フランク王国の拡大、東西両教会による南スラブ人の分断


 西方ではライン川流域から興ったフランク王国が次第に力をつけ、西ヨーロッパを統一し、西ローマ帝国を再興する。748年にはスロベニアを併合し、さらに806年にはクロアチアとダルマチア北部に勢力を伸ばし、この地のスラブ人(クロアチア人、スロベニア人)にカトリックを伝道し、ローマ文字を伝える。

 この頃からプルガリアによるセルビアへの侵入が始まり、対抗上セルビア人は東ローマ帝国とギリシア正教への傾倒を強め、同時にキリル文字を受け入れる。

 またこの頃から、726年のレオン3世の偶像破壊論導入に始まった、東方教会(ギリシア正教会)と西方教会(カトリック)の対立はますます激しくなる。

 また811年に海運国家のベネチア共和国が興り、イストラからダルマチアの沿岸にかけて徐々に勢力を伸ばす。