地中海,ユーゴスラビア,モンテネグロ,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア



アドリア海北岸を縁取る、美しい小さなイタリア風の港町



 イタリア半島の南部のオトラントとアルバニアのヴローラ、この間はわずか80kmのオトラント海峡で隔てられています。その海峡の北側はアドリア海と呼ばれ、地中海の一部ではありますが他とは切り離され、イタリア半島とバルカン半島に囲まれた内海になっています。そしてアドリア海の最深部には、中世に中東貿易を独占し大変に栄えたヴェネチア(旧ヴェネチア共和国)があります。

 ヴェネチアは、その国力の生命線ともいえる中東貿易を守るために、航路にあたる沿岸地域に次々と支配を広げていきました。もともと東ローマ帝国の自治国からスタートしたヴェネチアですが、同国の没落に呼応してその領土を奪っていきます。そして13世紀中には、ヴェネチアからイストラ、ダルマチア、イオニア海、エーゲ海の島々、ペロポネソス半島、クレタ島に渡る支配を確実にしていきました。

 現在のスロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビア、ギリシアにあたる、これらの地域には今もってヴェネチアの遺跡やヴェネチア風の町も数多く見られます。そのなかでもイストラ、ダルマチア地方(現在のスロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビアの沿岸地方)は、ヴェネチア占領のはるか昔、古代ローマ帝国以来、常にイタリア文化が息づいてきた土地柄です。これらの土地では紀元前2世紀ごろから1918年または1945年まで、2000年以上に渡りラテン語またはダルマチア語(イタリア語の近縁語)が公用語として使用されてきました。これ加えて15〜18世紀の400年間を中心としたヴェネチア共和国時代の強固な支配は、この地域にいっそうイタリア色を濃くすることになりました。そのイタリア風の気質、文化はスラブ人の支配下に入り約55〜82年が経過した現在でも、まだ強く残っています。

 イストラ、ダルマチア地方は、スロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビアなどスラブの国々から見れば辺境の地です。彼らの首都であるリュブリャナ、ザグレブ、ベオグラードはいずれもドナウ川支流のサバ川沿いにあることからもわかるように内陸性の国であり、産業、交通、主要都市など国の中心は川沿いの平野部に多くなっています。地中海との間は険峻なディナールアルプスで仕切られており、海岸部にはスムーズに出ることはできません。なおかつ海岸の地形はたいへん入り組んで複雑であり、数え切れないほどの島々が海上に散らばっています。しかもヴェネチアの多くの都市は島々の入り組んだ入り江の中に造られて入ることが多いのです。海上交通には大変便利ですが、内陸との交流にはきわめて不向きな町の立地が、現在までスラブ人による開発を免れてきた大きな原因といえるでしょう。また逆にスラブの国々も、この美しい遺産をそのままの姿で残し、観光に活用することを望んでいます。

 このページでは、イタリア本国ではもうほとんどの地域で見られなくなった、中世の面影を残す古いイタリア風の港町をご紹介していきます。


(1)旧ヴェネチア共和国都市群の特徴
(2)イストラ・ダルマチア地域の歴史
(3)イストラ・ダルマチア各地域の小さなイタリア風都市
   ・Istra/Istria(イストラ/イストリア) →個別情報へ
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   ・Kvarner/Quarnero(クヴァルナー/クァルネロ) →個別情報へ
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   ・Zadar,Šibenik/Zara,Sebenico(ザーダル、シベニック/ツァーラ、セベニコ) →個別情報へ
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   ・Split,Dubrovnik/Spalato,Ragusa(スプリット、ドブロヴニク/スパラート、ラグーザ) →個別情報へ
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   ・Цpна Гора(Crna Gora)/Monte Negro(ツルナゴーラ/モンテネグロ) →個別情報へ
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イストラ・ダルマチア
特にお勧めする都市(本文中★印)  お勧めする都市(本文中太字)  本文で触れた都市   旧ヴェネチア共和国(1797年)
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 (1)旧ヴェネチア共和国都市群の特徴

 イストラ・ダルマチア沿岸部は海岸部まで山が迫る険しい地形きわめて複雑に入り組んだ海岸線数多くの島々、というような、大変複雑な地勢により特徴付けられます。このため古くからこの地を安定して支配した勢力は全く有りませんでした。
 またそのような地形は中央集権的な国家の形成には不向きであり、その結果として多くの都市国家や貴族・諸侯の領地が並立し、それぞれが大国と同盟関係を結び、保護を得る代わりに納税(徴兵等の労務提供を含む)するという形式を取らざるを得ませんでした。
 ザーダルのように、ハンガリーとヴェネチアにかわるがわる責められ、幾度となく主君を変えた都市も有れば、ドブロブニクのようにときにはイスラムの国トルコを主君にしながら要領よく立ち回り栄えた都市もありました。
 しかし中世の間は多くの都市が結果的にはヴェネチアの軍門にくだり、ヴェネチアにさんざん搾取されながらも、当時の世界最大の貿易国のおこぼれに預かりそれなりに繁栄した、というのが実態ではないでしょうか。ただ都市としては繁栄しても、庶民の生活は苦しいものでした。特に一部のイタリア人貴族は別として、大多数のスラブ人は都市の下層階級をなしており、このような民族的な分断が、ヴェネチアの圧政に対する蜂起の動きを鈍いものにしていました。また貿易と共にマラリア、ペストなどの伝染病もしばしば運ばれて、町が全滅寸前になることも珍しくはなかったようです。
 ミクロ的な町の立地は2つのタイプに別れるようです。一つは、小島、または小さな半島などの上に造られ、海に対して開かれたタイプ、もう一つが入り江に作られる港としての機能を優先した閉ざされたタイプになります。特に前者のタイプは、海に浮かぶ島や小さな半島を赤い屋根の小さな家々が埋め尽くすという、大変美しい風景を作り出しています。しかしいずれにせよアドリア海に出やすい島の先端部などに位置する都市が多いため、旅行者の立場で言うなら比較的訪問しにくいところといえます。そのため現在でもこれらの島々の港を結ぶ沿岸航路が活躍しています。

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 (2)イストラ・ダルマチア地域の歴史

 紀元前にはイリリア人と呼ばれる種族が、部族ごとに王国を作っていたといわれています。また紀元前390年にギリシア人がヴィス島に都市国家イッサ(ヴィス)を建設し、コルクラ(コルチュラ)、トラグリオン(トロギル)を支配しながら栄えました。またウバール島にもイリリア人を破りファロス(スタリグラード)を建設しました。他にもイストラ、ツレス島、ロッシーニ島などにも都市を建設しています。ギリシア人はイリリア人の土地の一部に住みついたに過ぎませんでしたが、ローマ人はイリリア人と本格的な戦争を繰り返し、続々と領地を拡大、ついに全域を平定し帝国に併合しました。しかしそのローマもケルト人、ゲルマン人などに滅ぼされ、この地域は強固な国家権力が及ばぬ地域になったものと思われます。
 次にここに進出したのはビサンツ帝国でした。6世紀には、アドリア海北岸からヴェネチアにかけての地域を支配し、いくつかのビサンチン教会(正教)を現代に残しています。しかしそれも長くは続きませんでした。6〜7世紀にかけて北方からスラブ人が大挙して侵入してきます。彼らは始めは独自の国家を持たず、下層階級の住民として穏やかにこの地に入りこんできました。しかしその数はあまりにも多かったため、平和的にこの地を占拠することに成功したのです。またイストラ半島からダルマチア北部にかけての地域はフランク王国(ドイツ)の一角に組み込まれ、カトリック教会の影響下に入りました。
 10世紀〜14世紀にかけて、大陸ではスラブ系国家のクロアチア王国、ボスニア首長国、セルビア王国、トルコ系(?)のハンガリー王国などがつぎつぎと興ります。また沿岸部ではヴェネチア共和国が力を伸ばしていきます。この大陸と海岸の勢力は、沿岸部や島々をめぐって激しく争い、各都市の帰属はめまぐるしく変わります。しかも各都市にはある程度ないしはかなりの自治権があり、また名目上はあくまでもビサンツ帝国の領土である、という非常に複雑な支配構造になっていました。ただ政治的な支配権とは別に、経済・文化的にはヴェネチアの影響がますます強くなっており、この時期に現在のイタリア都市としての基盤ができたものと思われます。そんな中で一番大陸よりの奥まった位置にあるクルック島だけは、10世紀ごろのグラゴール文字の普及や、14〜15世紀にかけてのスラブ人による自治など、やや独自色を発揮することができました。またこの間、イストラ半島の山間部からリエカにかけては、ドイツ、オーストリアが保持しつづけ、他の地域とは全く異なる道を歩んでいきました。
 1409年にはイストラ・ダルマチアのほぼ全域が、正式にヴェネチア共和国領になり、名実共にイタリアの町になりました。主要都市でヴェネチアの影響下に入らなかったのは、オーストリア領のリエカ(ただし17世紀までは小さな町でした)、トルコ自治領のラグーザ共和国(ドブロブニク)だけでした。もっともラグーザ共和国も人文的には明らかにラテン国家であり、この時代はまさに表面的にはイタリア全盛期といえるでしょう。一方トルコの内陸部占領に伴い押し寄せるスラブ人難民はかなりの数になり、人種構成的にはどの町でも大多数がスラブ人になっていました。ヴェネチア支配下の安定は1797年のヴェネチア滅亡まで続きました。
 ヴェネチア共和国が滅びたあと、ほぼ全域が1797年〜1805年にはオーストリア領、1805〜1813年にはフランス支配地域、1813〜1918年には再度オーストリア領となりました。特徴的なことは、オーストリア領時代には依然として少数のイタリア貴族による実質的統治が続けられていたことです。この地域ではヴェネチア時代と何ら代わることなく、イタリア人がスラブ人を支配するという構図がそのまま保持され、実際公用語はイタリア語のままでした。
 第一次世界大戦を通じて、イタリアはこの地域の領土を回復する手はずでしたが、スラブ人の反発は激しく、結局1918年にセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(ユーゴスラビアの前身)が建国されると、イストラ・ダルマチアの多くの部分はそこに移行し、(中世の短期間の支配を別とすれば)歴史上初めてスラブ人が主役を務めることになります。しかしイストリア(イストラ)半島、フィウメ(リエカ)、ケルソ(ツレス)島、ルシーノ(ロシーニ)島、ツァーラ(ザーダル)、ラゴスタ(ラストヴォ)島だけは、イタリアが死守しました。またこれら地域ではイタリア人の植民が増え、実際イタリア人の勢力が強くなりました。この時期ファシスト政権はイッレデンティズモirredentismo−国土回復運動に求心力を求め、「未回収のイタリア」として、南チロル、コルシカ、ニースなどと共に、イストラ・ダルマチアをあげ、回復のチャンスをうかがっていました。第二次大戦の機会に乗じ、1941年イタリアは残るダルマチアの大部分を回復しましたが、1943年の敗戦によりその望みはあえなく断ち切られました。こうしてイストラ・ダルマチアのほぼ全域がユーゴスラビアとなりました。1954年、イストラ半島西部にわずかに残された国連管理地域のうち、カポディストリア(コペル)はユーゴスラビア領となり、半島の付け根にあるトリエステ(トゥルスト)のみが、イタリアに返還されました。
 1991年の(旧)ユーゴスラビア分裂により、イストラ半島西部の、コペル、ピランがスロヴェニアに、それ以外のイストラ・ダルマチアのほぼ全域がクロアチアに分割されました。現在ユーゴスラビアにとどまっているのはダルマチア最南部のヘルツェグ・ノヴィ〜ブドゥヴァにかけての地域のみとなりました。これらダルマチア最南部はユーゴスラビア連邦のツルナ・ゴーラに属しており、離脱も含め、今後の連邦との関係が注目されます。またダルマチア南部の小さな村ネウムだけは、中世以来トルコ領であった関係で、現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナに帰属しています。

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 (3)イストラ・ダルマチア各地域の小さなイタリア風都市

 地名はクロアチア語(またはスロヴェニア語、セルビア語)/イタリア語の順に記しました。セルビア語の地名はカッコ内にローマ字表記も併記しました。すべてすばらしい町ばかりですが、太字で示した町はお勧めすです。また中でも★をつけたところは特に強くお勧めします。