アドリア海北岸を縁取る、美しい小さなイタリア風の港町 |
イタリア半島の南部のオトラントとアルバニアのヴローラ、この間はわずか80kmのオトラント海峡で隔てられています。その海峡の北側はアドリア海と呼ばれ、地中海の一部ではありますが他とは切り離され、イタリア半島とバルカン半島に囲まれた内海になっています。そしてアドリア海の最深部には、中世に中東貿易を独占し大変に栄えたヴェネチア(旧ヴェネチア共和国)があります。
ヴェネチアは、その国力の生命線ともいえる中東貿易を守るために、航路にあたる沿岸地域に次々と支配を広げていきました。もともと東ローマ帝国の自治国からスタートしたヴェネチアですが、同国の没落に呼応してその領土を奪っていきます。そして13世紀中には、ヴェネチアからイストラ、ダルマチア、イオニア海、エーゲ海の島々、ペロポネソス半島、クレタ島に渡る支配を確実にしていきました。
現在のスロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビア、ギリシアにあたる、これらの地域には今もってヴェネチアの遺跡やヴェネチア風の町も数多く見られます。そのなかでもイストラ、ダルマチア地方(現在のスロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビアの沿岸地方)は、ヴェネチア占領のはるか昔、古代ローマ帝国以来、常にイタリア文化が息づいてきた土地柄です。これらの土地では紀元前2世紀ごろから1918年または1945年まで、2000年以上に渡りラテン語またはダルマチア語(イタリア語の近縁語)が公用語として使用されてきました。これ加えて15〜18世紀の400年間を中心としたヴェネチア共和国時代の強固な支配は、この地域にいっそうイタリア色を濃くすることになりました。そのイタリア風の気質、文化はスラブ人の支配下に入り約55〜82年が経過した現在でも、まだ強く残っています。
イストラ、ダルマチア地方は、スロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラビアなどスラブの国々から見れば辺境の地です。彼らの首都であるリュブリャナ、ザグレブ、ベオグラードはいずれもドナウ川支流のサバ川沿いにあることからもわかるように内陸性の国であり、産業、交通、主要都市など国の中心は川沿いの平野部に多くなっています。地中海との間は険峻なディナールアルプスで仕切られており、海岸部にはスムーズに出ることはできません。なおかつ海岸の地形はたいへん入り組んで複雑であり、数え切れないほどの島々が海上に散らばっています。しかもヴェネチアの多くの都市は島々の入り組んだ入り江の中に造られて入ることが多いのです。海上交通には大変便利ですが、内陸との交流にはきわめて不向きな町の立地が、現在までスラブ人による開発を免れてきた大きな原因といえるでしょう。また逆にスラブの国々も、この美しい遺産をそのままの姿で残し、観光に活用することを望んでいます。
このページでは、イタリア本国ではもうほとんどの地域で見られなくなった、中世の面影を残す古いイタリア風の港町をご紹介していきます。
(1)旧ヴェネチア共和国都市群の特徴 | |
(2)イストラ・ダルマチア地域の歴史 | |
(3)イストラ・ダルマチア各地域の小さなイタリア風都市 | |
・Istra/Istria(イストラ/イストリア) | →個別情報へ (別ページ) |
・Kvarner/Quarnero(クヴァルナー/クァルネロ) | →個別情報へ (別ページ) |
・Zadar,ibenik/Zara,Sebenico(ザーダル、シベニック/ツァーラ、セベニコ) | →個別情報へ (別ページ) |
・Split,Dubrovnik/Spalato,Ragusa(スプリット、ドブロヴニク/スパラート、ラグーザ) | →個別情報へ (別ページ) |
・Цpна Гора(Crna Gora)/Monte Negro(ツルナゴーラ/モンテネグロ) | →個別情報へ (別ページ) |
イストラ・ダルマチア |
特にお勧めする都市(本文中★印) お勧めする都市(本文中太字) 本文で触れた都市 旧ヴェネチア共和国(1797年) |
個別の都市情報のページ →北部 →南部 |
(1)旧ヴェネチア共和国都市群の特徴
イストラ・ダルマチア沿岸部は海岸部まで山が迫る険しい地形、きわめて複雑に入り組んだ海岸線、数多くの島々、というような、大変複雑な地勢により特徴付けられます。このため古くからこの地を安定して支配した勢力は全く有りませんでした。
またそのような地形は中央集権的な国家の形成には不向きであり、その結果として多くの都市国家や貴族・諸侯の領地が並立し、それぞれが大国と同盟関係を結び、保護を得る代わりに納税(徴兵等の労務提供を含む)するという形式を取らざるを得ませんでした。
ザーダルのように、ハンガリーとヴェネチアにかわるがわる責められ、幾度となく主君を変えた都市も有れば、ドブロブニクのようにときにはイスラムの国トルコを主君にしながら要領よく立ち回り栄えた都市もありました。
しかし中世の間は多くの都市が結果的にはヴェネチアの軍門にくだり、ヴェネチアにさんざん搾取されながらも、当時の世界最大の貿易国のおこぼれに預かりそれなりに繁栄した、というのが実態ではないでしょうか。ただ都市としては繁栄しても、庶民の生活は苦しいものでした。特に一部のイタリア人貴族は別として、大多数のスラブ人は都市の下層階級をなしており、このような民族的な分断が、ヴェネチアの圧政に対する蜂起の動きを鈍いものにしていました。また貿易と共にマラリア、ペストなどの伝染病もしばしば運ばれて、町が全滅寸前になることも珍しくはなかったようです。
ミクロ的な町の立地は2つのタイプに別れるようです。一つは、小島、または小さな半島などの上に造られ、海に対して開かれたタイプ、もう一つが入り江に作られる港としての機能を優先した閉ざされたタイプになります。特に前者のタイプは、海に浮かぶ島や小さな半島を赤い屋根の小さな家々が埋め尽くすという、大変美しい風景を作り出しています。しかしいずれにせよアドリア海に出やすい島の先端部などに位置する都市が多いため、旅行者の立場で言うなら比較的訪問しにくいところといえます。そのため現在でもこれらの島々の港を結ぶ沿岸航路が活躍しています。地図に戻る
(2)イストラ・ダルマチア地域の歴史
紀元前にはイリリア人と呼ばれる種族が、部族ごとに王国を作っていたといわれています。また紀元前390年にギリシア人がヴィス島に都市国家イッサ(ヴィス)を建設し、コルクラ(コルチュラ)、トラグリオン(トロギル)を支配しながら栄えました。またウバール島にもイリリア人を破りファロス(スタリグラード)を建設しました。他にもイストラ、ツレス島、ロッシーニ島などにも都市を建設しています。ギリシア人はイリリア人の土地の一部に住みついたに過ぎませんでしたが、ローマ人はイリリア人と本格的な戦争を繰り返し、続々と領地を拡大、ついに全域を平定し帝国に併合しました。しかしそのローマもケルト人、ゲルマン人などに滅ぼされ、この地域は強固な国家権力が及ばぬ地域になったものと思われます。
次にここに進出したのはビサンツ帝国でした。6世紀には、アドリア海北岸からヴェネチアにかけての地域を支配し、いくつかのビサンチン教会(正教)を現代に残しています。しかしそれも長くは続きませんでした。6〜7世紀にかけて北方からスラブ人が大挙して侵入してきます。彼らは始めは独自の国家を持たず、下層階級の住民として穏やかにこの地に入りこんできました。しかしその数はあまりにも多かったため、平和的にこの地を占拠することに成功したのです。またイストラ半島からダルマチア北部にかけての地域はフランク王国(ドイツ)の一角に組み込まれ、カトリック教会の影響下に入りました。
10世紀〜14世紀にかけて、大陸ではスラブ系国家のクロアチア王国、ボスニア首長国、セルビア王国、トルコ系(?)のハンガリー王国などがつぎつぎと興ります。また沿岸部ではヴェネチア共和国が力を伸ばしていきます。この大陸と海岸の勢力は、沿岸部や島々をめぐって激しく争い、各都市の帰属はめまぐるしく変わります。しかも各都市にはある程度ないしはかなりの自治権があり、また名目上はあくまでもビサンツ帝国の領土である、という非常に複雑な支配構造になっていました。ただ政治的な支配権とは別に、経済・文化的にはヴェネチアの影響がますます強くなっており、この時期に現在のイタリア都市としての基盤ができたものと思われます。そんな中で一番大陸よりの奥まった位置にあるクルック島だけは、10世紀ごろのグラゴール文字の普及や、14〜15世紀にかけてのスラブ人による自治など、やや独自色を発揮することができました。またこの間、イストラ半島の山間部からリエカにかけては、ドイツ、オーストリアが保持しつづけ、他の地域とは全く異なる道を歩んでいきました。
1409年にはイストラ・ダルマチアのほぼ全域が、正式にヴェネチア共和国領になり、名実共にイタリアの町になりました。主要都市でヴェネチアの影響下に入らなかったのは、オーストリア領のリエカ(ただし17世紀までは小さな町でした)、トルコ自治領のラグーザ共和国(ドブロブニク)だけでした。もっともラグーザ共和国も人文的には明らかにラテン国家であり、この時代はまさに表面的にはイタリア全盛期といえるでしょう。一方トルコの内陸部占領に伴い押し寄せるスラブ人難民はかなりの数になり、人種構成的にはどの町でも大多数がスラブ人になっていました。ヴェネチア支配下の安定は1797年のヴェネチア滅亡まで続きました。
ヴェネチア共和国が滅びたあと、ほぼ全域が1797年〜1805年にはオーストリア領、1805〜1813年にはフランス支配地域、1813〜1918年には再度オーストリア領となりました。特徴的なことは、オーストリア領時代には依然として少数のイタリア貴族による実質的統治が続けられていたことです。この地域ではヴェネチア時代と何ら代わることなく、イタリア人がスラブ人を支配するという構図がそのまま保持され、実際公用語はイタリア語のままでした。
第一次世界大戦を通じて、イタリアはこの地域の領土を回復する手はずでしたが、スラブ人の反発は激しく、結局1918年にセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(ユーゴスラビアの前身)が建国されると、イストラ・ダルマチアの多くの部分はそこに移行し、(中世の短期間の支配を別とすれば)歴史上初めてスラブ人が主役を務めることになります。しかしイストリア(イストラ)半島、フィウメ(リエカ)、ケルソ(ツレス)島、ルシーノ(ロシーニ)島、ツァーラ(ザーダル)、ラゴスタ(ラストヴォ)島だけは、イタリアが死守しました。またこれら地域ではイタリア人の植民が増え、実際イタリア人の勢力が強くなりました。この時期ファシスト政権はイッレデンティズモirredentismo−国土回復運動に求心力を求め、「未回収のイタリア」として、南チロル、コルシカ、ニースなどと共に、イストラ・ダルマチアをあげ、回復のチャンスをうかがっていました。第二次大戦の機会に乗じ、1941年イタリアは残るダルマチアの大部分を回復しましたが、1943年の敗戦によりその望みはあえなく断ち切られました。こうしてイストラ・ダルマチアのほぼ全域がユーゴスラビアとなりました。1954年、イストラ半島西部にわずかに残された国連管理地域のうち、カポディストリア(コペル)はユーゴスラビア領となり、半島の付け根にあるトリエステ(トゥルスト)のみが、イタリアに返還されました。
1991年の(旧)ユーゴスラビア分裂により、イストラ半島西部の、コペル、ピランがスロヴェニアに、それ以外のイストラ・ダルマチアのほぼ全域がクロアチアに分割されました。現在ユーゴスラビアにとどまっているのはダルマチア最南部のヘルツェグ・ノヴィ〜ブドゥヴァにかけての地域のみとなりました。これらダルマチア最南部はユーゴスラビア連邦のツルナ・ゴーラに属しており、離脱も含め、今後の連邦との関係が注目されます。またダルマチア南部の小さな村ネウムだけは、中世以来トルコ領であった関係で、現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナに帰属しています。地図に戻る
(3)イストラ・ダルマチア各地域の小さなイタリア風都市
地名はクロアチア語(またはスロヴェニア語、セルビア語)/イタリア語の順に記しました。セルビア語の地名はカッコ内にローマ字表記も併記しました。すべてすばらしい町ばかりですが、太字で示した町はお勧めすです。また中でも★をつけたところは特に強くお勧めします。
- Istra/Istria(イストラ/イストリア)
Piran 東方航路はヴェネチアを出るとすぐにイストラ半島に出会います。半島最大の都市はスロヴェニアのKoper/Capodistoria(コペル/カポディストリア)で、町の名が意味する通り「イストラの首都」となっています。現在ではスロヴェニア唯一の港湾都市として、ますます重要度を増しています。直径約2kmの円形の小島の上に築かれた旧市街は、現在は埋め立てにより本土に繋がれていますが、赤いかわら屋根に入り組んだ路地は、往時を忍ばせてくれます。また一方スロヴェニアとしては中級の都市でもあり、繁華街にはしゃれた店も多く見られます。イタリアのトリエステより21kmと極めて近く、街中にはイタリアの代表部が現存します。そのすぐ南には垢抜けた漁村Izola/Isola(イゾラ/イゾーラ)があります。町の名が示す通りここも円形の小島でしたが、やはり現在は陸続きになっています。スロヴェニア随一の漁港でこれといった名所は有りませんが、近年は静かで落ち着いたリゾートライフを送れる穴場のリゾート地としても注目を集めつつあります。入り組んだ路地の古い町並みを歩いていると、他のリゾートタウンとは異なり出会うのは土地っ子ばかりという、観光化されていない点が特徴といえます。さらにすぐ南の★Piran/Pirano(ピラン/ピラーノ)は小さな半島を埋め尽くすように建つ家並みが大変美しいヴェネチアタウンです。ギリシアの町ピレオスの時代から続く灯台は今でもその役割を保ちつづけています。迷路のような細い路地は高層の建物にはさまれ、ほとんど日が入りません。そんな町を抜けるとどの方向にも青い海が広がります。高台にある教会からの眺め、海沿いのレストランでの食事、一般車の乗り入れが禁止されたこの町での生活は本当に楽しい想い出になることでしょう。この町と続いている近代的なリゾートタウンPortro/Portorose(ポルトロージュ/ポルトローゼ)に宿泊するのも一案です。
Rovinj ポルトロージュの南7kmにある国境を超え、クロアチアの海岸線を進んでいくと、次々と小さな半島の上に造られた、海に浮かんだような町が現れます。ピラン湾をはさんで反対側の古い町Umag/Umago(ウマグ/ウマーゴ)、6世紀に「新しい町」と命名されたNovigrad/Citta Nova(ノヴィグラード/チッタノヴァ)が現れます。そして続いてPoreč/Parenzo(ポレッチ/パレンツォ)に到着します。ここも同様に小さな半島を埋め尽くす古い町並みと港で特徴付けられる町ですが、何といっても世界遺産でもある6世紀のビサンツ帝国により立てられたエウフラシウス礼拝堂のモザイクは見逃すことができません。町自体は紀元2世紀にローマ帝国のイストラ征服の拠点として建設された古い歴史がありますが、現在では旧市街も比較的きれいに整備されています。さらに南15kmにある★Rovinj/Rovigno(ロヴィーニ/ロヴィーニョ)へ船でなく陸路で行くには、深く切れこんだ美しい港町Vrsar(ヴルサル)の先のリムスキ湾が邪魔をしているため大回りをすることになります。ロヴィーニは直径1km程度の小島(現在では一部陸地とつながっています)の上にびっしりと建てられた家並みが美しい、イストラの真珠とも呼ばれるこの地域でも最も美しい町です。航空写真で見た、屋根の色で真っ赤なロヴィーニ島と緑に覆われた周辺の小島とが青い海に浮かぶ様子は、ひとつの美術品のようにも見えます。小島の中心部の小高い丘の上の教会を中心に、中世の古い町並みがよく残されたすばらしいリゾートタウンです。半島の最南部近くにあるPula/Pola(プーラ/ポーラ)は、人口65000で半島唯一の空港もある最大の都市ですが、ローマ時代の見事な円形競技場(1世紀)、アウグストゥス寺院(1世紀)、ビサンチン教会(6世紀)など、その遺跡の多さは目を見張るものがあります。
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Krk |
クヴァルナー地方とは、イストラ半島と大陸とに挟まれたクヴァルナー湾沿岸およぴその島々(クルック、ツレス、ロッシーニ、ラブなど)を指します。奥まった地形のため比較的大陸の影響が強く、特に本土の都市リエカ、オパティヤなどは古くはスラブ、最近ではオーストリアの強い影響下で発展してきました。そんな中でも沖合いに浮かぶロッシーニ島、ラブ島のアドリア海側には、いくつかのすばらしいヴェネチアタウンを見つけることができます。細長いツレス、ロッシーニ両島(橋で結ばれています)の先端、本土から77kmのもっともアドリア海側に突き出たところに、美しい港町Mali Loinj/Lussino Piccolo(マリ・ロッシーニ/ルッシーノ・ピッコロ)があります。ここもイストラと同じく1944年までイタリア語が公用語であったためその影響が強く、現在でも夏のシーズン中にはヴェネチアから定期船が運行され、多くのイタリア人でにぎわっています。現在は観光化が進んできており、むしろ東4kmにある双子の町Veli Loinj(ヴェリ・ロッシーニ)のほうが漁村の風情を残しています。この近くには大型船が寄港しない数多くの小島があり、ここをベースに訪ね歩くのも楽しいでしょう。ラブ島の中心地★Rab/Arbe(ラブ/アルベ)も、しばしばガイドブックやパンフレットの表紙を飾る、きわめて美しい町のひとつです。ここも他の町同様、紀元前2世紀からローマ帝国の支配下に入りました。本土からわずか2kmほどの位置にあるこの島は、トルコが大陸を支配した時代に、難民の受入先となり多くのスラヴ人が移住してきました。しかし現在残っているのは中世そのままの石畳の美しいイタリア風の町並みです。町の一番古い部分は長さ数百メートルの小さな突起の上に築かれており、新しい市街が大きく四方へ広がっています。ヴェネチア時代は軍事拠点としても重視され栄えたため、当時の城壁、また美しい塔を持った多くの教会など、見るべきものは数多くあります。同じラブ島で北西10キロにある町Lopar(ロパール)は、アドリア海の対岸、イタリア半島の小国サンマリノ共和国を建国したマリーノの出身地として知られています。それにちなんでラブ島にも、ロパールの近くにサン・マリノと名づけられた町があります。湾の奥深くにあるクルック島もすばらしいリゾートアイランドですが、歴史的な意味では、フランコパン男爵とグラゴール文字の島として知られています。現在でもほぼ完全な姿を残している城壁に囲まれた中世の町Krk/Veglia(クルック/ヴェッリァ)は、ヴェネチア全盛時代の1358〜1480年の間、ヴェネチアの宗主権を認めながらも町の独立を維持したフランコパン男爵の本拠地でした。またこの島で発展したったグラゴール文字は、南スラブ語を表記する文字のひとつで、11世紀ごろには最盛期を迎えました。しかしローマ文字とキリル文字の狭間で勢力を弱め、1810年ごろに消滅したといわれています。この島は現在クルック橋で本土と結ばれているため、特にクロアチア、ハンガリー、オーストリア、ドイツなど、内陸部のリゾート客が車で盛んに訪れています。
この他、本土の歴史ある海港Rjeka/Fiume(リエカ/フィウメ)、同じく本土の有名な高級リゾートOpatija/Abbazia(オパティヤ/アバツィア)、ツレス島のイタリア風の港町Cres/Cherso(ツレス/ケルソ)を始め、魅力ある町や島がまだまだ数多くあります。
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Ptimošten |
ザーダルからシベニックにかけての地域には、沿岸に数多くある島のすべてが小さなものばかりになっています。このことは、島よりもむしろ本土の上に主要な町が発展し(もっともそれゆえ戦乱の影響を受けやすかったのですが)、また無数に散らばる小島はコルナティ国立公園を始めとして最高のアウトドア・ワールドを提供しているということです。この地域で一番特徴のある町はPtimošten(プリモシュテン)かも知れません。本土のすぐ脇にある小島の上に造られた街は、イストラ半島のロヴィーニのように、まるで中世のテーマパークといった風です。今では本土に橋で接続されています。このプリモシュテン周辺は島が多いダルマチアでは珍しく、本土が直接アドリア海に面しています。そのためこのような町が発展したものと考えられます。また約60kmの長さで細長く伸びるパグ島の中心地Pag(パグ)は、島の素朴な生活を伝える落ち着いた町です。Zadar/Zara(ザーダル/ツァーラ)は人口7万6千人と中部ダルマチアの中心都市ですが、第二次大戦、ユーゴ内戦等を運良くくぐり抜けた旧市街の一部分が、ヴェネチア時代の城壁やSveti Donat教会と共に町の古い歴史を伝えています。
Kornati (Passport Croatiaの51ページより引用) |
またこの町は1944年までイタリア領でした。ザーダルから南東74kmには中核都市ibenik/Sebenico(シベニック/セベニコ)があります。中世の旧市街は港を中心に丘の上に向かって広がっており、カテドラル、城壁などがすばらしい町並みです。この他ザーダルからシベニックの沖合いには、有人、無人の小さな島々が数多く点在しており、これらの島々には緑が比較的少ないため、ギリシアの島のように白い土と青い海の美しい風景を見せています。
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Dubrobnik |
アドリア海はこの地域から先には、ギリシアのイオニア諸島まで大きな島がありません。またヴェネチア共和国の時代にはこれより先はトルコ帝国が強く支配した地域でも有ります。それらの意味でヴェネチアとギリシア・中東を結ぶ中継地としてのスプリット・ドブロブニク(ドゥブロヴニクと発音しますが、慣例に従いドブロブニクと表記します)地方の意味は大きかったものと思われます。すばらしいヴェネチア都市も数多いのですが、まず始めに紹介すべきはアドリア海の真珠と詠われ、ツアー旅行にも必ず組み入れられる有名な★Dubrovnik/Ragusa(ドブロブニク/ラグーザ)でしょう。この都市は実は中世の時期、イストラ・ダルマチア地域で唯一ヴェネチア共和国の配下には入らず、トルコ帝国の保護下に入り、ヴェネチアのライバルといえる存在でしたが、旧ローマ帝国の流れを汲む正真正銘のイタリア都市であることは間違い有りません。その歴史は意外と新しく、7世紀にローマ人により建設されたといわれています。その後いったんヴェネチアとして発展したあと、15世紀にはトルコ帝国の保護下に入りながらもラグーザ共和国として大きな自治権を確保し、事実上の独立を果たします。その領土もほぼ現在のドブロブニク地方と呼ばれる全域(ボスニアのネウム以東およびペリェシャッツ半島、ラストヴォ島、ムリェット島)に達しました。1667年の大地震で町はいったん崩壊しましたが、そのままの姿で再建されました。城壁と断崖とに囲まれた堅牢な町の防備、イタリア世界と中東との中継点という地理的な要因、小国ならではの巧みな外交により、1808年フランス軍に敗れるまでの間、常に地域最大の都市でありつづけました。現在はかつての貿易のライバル、ヴェネチアと、観光都市としての地位を争っています。青い海に浮かびあがる中世の城壁都市は、世界遺産にも指定され、訪れるものを魅了します。1991年の内戦時にはユーゴスラビア軍の激しい砲撃を受けましたが、幸い大多数の建物はかろうじて崩壊を免れました。修復も進みつつある現在は、その傷跡をはっきり残しながらも元の姿を取り戻しつつあります。同じく世界遺産である★Trogir/Trau(トロギル/トラウ)も忘れてはなりません。この町は本土とわずか300mほどの距離にあるOtok Čiovo(チオヴォ島)とを隔てるトロギル海峡の中に浮かぶ幅200mほどの小島の上にあります。この町の歴史は古く、紀元前4世紀のギリシア人都市トラグリオンに由来します。小さな島には由緒ある建物がぎっしり詰まっていますが、その多くは13〜15世紀のものです。トロギルとスプリットとの間には、海岸に沿って小さな村を伴った7つの中世の城が残っておりKatela(カシュテラ)と呼ばれています。トルコとの戦いの中で山間部のクロアチア人が築いた城であり、かつて20は有ったといわれています。いずれも美しい小さな村ですが、いまではスプリット市民の手軽な観光地でもあります。スプリットの東にもOmi/Almissa(オミッシュ/アルミッサ)、Makarska(マカルスカ)などのいずれもイタリア文化の影響を強く受けたクロアチア人の美しい町です。スプリットの沖、約60のkmのところにはヴィス島が浮かんでおり、その中心地でもある小さな町Vis/Issa(ヴィス/イッサ)は、非常に興味を引く場所です。この島はアドリア海の重要な拠点であり、1976年〜1989年までは旧ユーゴスラビア連邦軍の拠点として外国人は立ち入ることができませんでした。そのため素朴な島の風情がよく残されています。ここは歴史の島でもあり、紀元前390年のギリシア人都市国家イッサの首都であった頃の多くの城壁や墓地がローマ時代の公衆浴場と共に残り、博物館では陶器や宝石など多くの出土品を見ることができます。ギリシア人が持ち込んだワインは今でも島の名産品であり、白のヴガヴァ種のワイン(ヴガヴァ・ヴィシュカ)はギリシアワインに近い独特の芳香を持つ逸品です。
Korčula |
また近くの小島Bievo(ビシェヴォ)島のModra pilja(モドゥラ・シュピーリャ)−青の洞窟も有名です。ヴィス島のもうひとつの小さな町Komia(コミージャ)も美しい漁師町です。教会と要塞を擁する、細い路地の中世都市です。ヴィス島と本土との間にあるHvar(フヴァール)島も見逃すことはできません。中〜南部ダルマチアは晴天率が高いことで知られますが、この島はクロアチアのマデイラとも呼ばれ年間日照時間は2724時間と国内で最高です。いずれも長い歴史を持つ二つの町がありますが、13世紀の城壁に囲まれた立派な広場を持つHvar/Lesina(フヴァール/レズィーナ)がまず目を引きます。山の緩やかな斜面に位置し、決して派手さはありませんが、均整の取れた美しい中世港湾都市です。もうひとつの町Stari Grad/Civitas Vetus(スタリグラード/チヴィタス・ヴェトゥス)も美しい中世の旧市街を残す町ですが、その起源は紀元前4世紀のギシリア人の町ファロスにあります。現在は本土と島とを結ぶ玄関口としての性格が強くなっています。またもっとも本土に近いSućraj(スチライ)は、中世にはヴァネチア、クロアチア、トルコの3勢力の拮抗する場所としてそれぞれの影響を受けており、防衛的な町のつくりが興味を引きます。フヴァール島のさらに本土側にはBrač(ブラッチ)島があります。白砂のビーチを有するBol(ボール)はその空港に首都からの定期便が出るほどのリゾート地です。一方島の北岸にはSupetar(スペタル),Milna(ミルナ),Sutivan(スティヴァン),Postira(ポスティラ),Pučića(プチシュチャ)などのこじんまりした美しい港町が見られます。本土から実に細長く伸びたペリェシャッツ半島先端部のすぐ目と鼻の先には、コルチュラ島のすばらしい港町★Korčula/Curzola(コルチュラ/クルツォーラ)があります。この島は紀元前6世紀のギシリア都市Korkyra Melania(コルキラ・メラニア)以来、2000年以上の歴史を持っていますが、コルチュラの町は比較的新しく、歴史に登場するのは中世に入ってからです。ドブロヴニクと類似の構造を持つ、小さな半島上に築かれた城壁都市という、典型的な美しいダルマチアの町といえるでしょう。石工で栄えた町だけあり、その都市の建築は見事です。また元(モンゴル・中国)への旅を記した東方見聞録などで日本でもよく知られる有名な旅行家マルコ・ポーロは、この町で生まれたといわれており、その生家(といわれる建物)が今でも残っています。この他、開発の波にほとんど洗われていない沖合いのLastovo/Lagosta(ラストヴォ/ラゴスタ)島、クロアチア有数の大都市Split/Spalato(スプリット/スパラート)に残る、3世紀にディオクレティアヌス帝の離宮として建てられ、今でも市民の雑居ビルとして使われている壮大な宮殿などがあります。またドブロヴニクの北西70kmの距離の海岸上には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領の町Neum(ネウム)があります。ボスニア唯一のビーチリゾート地となっています。
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Kotor |
モンテネグロ(日本ではセルビア語の国名「ツルナゴーラ」はほとんど知られていないので、ここではモンテネグロと呼びます)は、現在セルビアと共にユーゴスラビア連邦を構成する国のひとつですが、歴史的にはセルビアとかなり異なった歩みを進んできたことで知られています。またモンテネグロの中でも独自の文化を持ち政治的な中心地である山間部と、ヴェネチアをはじめ多くの国々と交渉のあった海岸部はかなり色合いが異なります。海岸部は複雑に入り組んだコトル湾の諸都市と、比較的単純な海岸部の都市とに大別されます。特にコトルは世界遺産に指定されている、保存状態のよい中世の小都市です。
旧ヴェネチア共和国の都市としてみた場合、現在のクロアチア、スロヴェニアに属する他の都市との間には、歴史的な点で明らかな相違があります。そのためヴェネチアの影響に覆い被さるように、東部ではトルコ、西部では(正教徒のスラブ人である)モンテネグロの影響が強くなっています。
イリリア人を平定し建設されたローマ帝国の諸都市は、6〜7世紀ごろスラブ人に占拠されました。他のダルマチア都市と異なるのは、それがセルビア人であったことです。セルビアは11世紀にはビサンツ帝国から独立しました。14世紀にセルビアがトルコに敗れたあと、コトル湾以西が一時ボスニア領になるなど幾多の紆余曲折を経て、この地域の海岸部は3つに分割されました。すなわちコトル湾の入り口以西はトルコ自治領ドブロヴニク共和国、コトル湾からブドヴァにかけてはヴェネチア領、そしてバール以東はトルコ領となったのです。まさにトルコとヴェネチアのぶつかり合いの接点であったため、その不安定な立場は諸外国に次々と付け入るすきを与えることになりました。セルビア王国の崩壊以後、この海岸線を支配した国を上げるなら主なものだけでも、ボスニア、アルバニア、ヴェネチア、トルコ、フランス、オーストリア、ロシア、ツルナゴーラ、ユーゴスラビア、イタリアのようになります。
ここで取り上げるダルマチアのヴェネチア都市に該当するのは、ブドヴァ以西の各都市です。これらはヴェネチアの支配下でクロアチア人の都市として発展し、それが現存する中世の町の基礎となりました。1918年にユーゴスラビアに組み入れられて以来、カトリック教徒のクロアチア人が激減し、正教徒のモンテネグロ人が取って代わりました。そのため地中海沿岸で唯一のキリル文字使用地域となっています。
★Котор(Kotor)/Cattaro(コトル/カッタロ)は、コトル湾に突き出た三角形の小さな町ですが、モンテネグロを代表する歴史的港湾都市です。町はすでにセルビア王国時代に発展をはじめており、城壁内の細い曲がりくねった路地の両側には、古い教会をはじめ貴重な歴史遺産がぎっしり詰まっており、町自体が世界遺産に指定されています。★Пераст(Perast)(ペラスト)は、あたかも湖のようなコトル湾に面した、山に囲まれた静かな美しい町です。穏やかな湖面に 赤い屋根の家々と教会の鐘楼とがよく映えています。ヴェネチア時代の賑わいもなく廃墟が目立ち始めていましたが、近年歴史地区に指定されてから修復が進みつつあります。Будва(Budva)/ブドヴァも城壁に囲まれた典型的なヴェネチアの影響が強い町です。ここは歴史上いつも境界線の町でした。395年にローマ帝国が東西に分割されたとき、その境界線がこの町の中をとおっており、町の東部の人は正教、西部の人はカトリックを信仰し、町の同じ教会で別々の典礼を受けていたそうです。また中世の時期には、この町までがヴェネチア共和国、この先のБар(Bar)/Antivari(バール/アンティヴァーリ)からがトルコ帝国でした。旧市街は残念ながら1979年の地震で崩壊してしまいましたが、町は現在もと通り再建され、美しいビーチに近い人気のリゾート地となっています。その近くにはСвети Стефан(Sveti Stefan)(スヴェティ・ステファン)という小島があります。もともと要塞であった小さな島の上の漁村でしたが、現在は本土と橋で繋がれたホテルとなっています。中世の町並みをそのまま残したこのホテルは、静かな人気を博しています。コトル湾の入り口、クロアチア国境近くにはХерцег Нови(Herceg-Novi)/Castelnuovo(ヘルツェグ・ノヴィ/カステル・ヌオヴォ)の町があります。この町はボスニア王国のトゥブルトゥコ1世により1382年に開かれましたが、ドゥブロブニク、続いてヴェネチアの手へ渡りわたり、その間大変栄えました。その遺産は中世都市として現在に引き継がれています。この他アルバニア国境近くには、中世にはトルコ領であったリゾート地、Улцињ(Ulcinj)/Dulcigno(ウルツィーニ/ドゥルチーニョ)があります。この町は現在でもイスラム教徒のアルバニア人が多く住み、トルコの雰囲気を残していることで知られています。